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風林火山。山本勘助の謎について。

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2007年に放映された、大河ドラマ「風林火山」。

2017年には、NHK BSプレミアムで大河ドラマアンコールとして、再放送されています。

戦国時代の大名・武田信玄の軍師である、山本勘助という武将の生涯を描いたドラマです。

山本勘助役は内野聖陽さんで、隻眼で足が不自由な役を見事に演じきりました。

また、余談になりますが、武田信玄役は市川亀治郎さん(四代目市川猿之助さん)で、武田信玄の若かりし頃を、今をときめく池松壮亮さんが演じています。この組み合わせは、1988年の大河ドラマ「武田信玄」では中井貴一さんと、若かりし頃を真木蔵人さんでした。

他に、武田信玄の役といえば、最近の大河ドラマでは「真田丸」で林邦史朗さんが演じています。ちなみに、この林邦史朗さんは「風林火山」をはじめ、「花燃ゆ」や「軍師官兵衛」等の数多くの大河ドラマで殺陣武術指導を担当されている殺陣師でもあります。「おんな城主 直虎」では、松平健さんの武田信玄が楽しみです。こうして様々な武田信玄を楽しむことが出来るのも、大河ドラマならではですね。

余談は、ここまでとして、山本勘助は、築城の技術に長けた天才的軍師だったと伝えられています。

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しかし勘助が登場する資料は、江戸時代に編纂されたといわれる『甲陽軍鑑』と、その影響下にある書物ばかりで、本当に存在したのか疑わしいのだそうです。

そんな謎多き伝説の人物・山本勘助のことを、調べてみました。

目次

「風林火山」での山本勘助の人生

ドラマ「風林火山」は、原作の井上靖さんの小説にオリジナルストーリーを加えた構成です。

山本勘助の浪人時代から武田家に士官する経緯、その後の活躍から、川中島の戦いで討ち死にするまでが描かれます。

小さな武家の次男として生まれた勘助は、仕官先を求めて各地を放浪。そしてミツという女性と出会い恋に落ちますが、身ごもったミツを武田信虎(仲代達矢さん)に殺され恨みを抱きます。信虎の嫡男・晴信(後の武田信玄)が、恨みを捨てて大望を抱くように説き、勘助は晴信のもとで働きます。

その後、晴信が父・信虎を追放して家督を継ぎ、正式に家臣として仕えることに。晴信は甲斐を囲む国々と戦い、知略を巡らせます。その中で勘助は、軍師としての才を発揮します。

晴信は信州・諏訪家に攻め入って滅ぼし、諏訪家の由布姫を晴信の側室にします。勘助は美しい由布姫を密かに慕い、ドラマではその心模様が描かれます。

そして最終回では、武田と上杉の大合戦・川中島の戦いで、勘助は晴信を守るために単騎で突撃して壮絶な討ち死をし、ドラマは幕を閉じます。

山本勘助は実在しなかった?

ドラマ「風林火山」では、勘助は見た目は醜く粗野ながらも、知略によって信玄を助けるという人物像でした。

『甲陽軍鑑』という書物でも、そのように描かれています。『甲陽軍鑑』は、江戸時代における甲州流軍学の教科書的な扱いで、広く武士に読まれました。勘助のドラマチックな生涯が武士に好まれ、浄瑠璃などでも演じられて庶民にも大人気となったそうです。

明治時代になると、『甲陽軍鑑』が西洋的な学術視点で詳しく研究されます。すると、年代の誤記等が指摘され、資料としての価値が低い文献だということに。さらに『甲陽軍鑑』以前の歴史書に、山本勘助という人物の記述がほとんどないということが分かり、山本勘助は架空の人物だと結論付ける学者も現れました。

ドラマがきっかけで、新たな資料が発見!

1969年に、大河ドラマ「天と地と」が放映されました。

このドラマの信玄の書状を見た視聴者が、家に眠る古文書の中に同じような書状があると思い出し、図書館に持ち込みました。

これがなんと本物の信玄の書状と鑑定され、その中に山本勘助の名前が載っていたのだそうです。こうして山本勘助なる人物は実在していたことが証明されました。

さらに、1990年には国語学者の研究によって『甲陽軍鑑』の言葉使いは江戸時代のものではなく、室町末期のものだと指摘されます。この研究で『甲陽軍鑑』の歴史的価値が見直されるとともに、山本勘助が実在したことの裏付けとなりました。

実際はどんな人物だったのか?

山本勘助という人物は実在していた、という結論になりました。

しかし、勘助が大活躍の軍師だったのかというと、そこははっきりしないようです。

武田家臣の山県昌景の配下で、足軽大将だったということは事実です。

しかし、ドラマや小説のように武田晴信に様々な作戦を提案したのかというと、誇張したフィクションであるという見方が大半です。

そういえば、1988年の大河ドラマ「武田信玄」の山本勘助は、隻眼の軍師ではなく、主に間者として描かれていました。演じたのは、あの西田麻衣さんでした。

では誰が、川中島のキツツキ作戦を考えたのか?

誰が、武田独特の丸馬出という築城法を考えたのか?

山本勘助でないのならば、誰が考えたのでしょう。今後の研究を待ちたいと思います。

その結果、やはり勘助の実績だった!となれば面白いですよね。

歴史ファンとしては盛り上がることだと思います。

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