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風林火山。武田家の親子対立と戦国時代の親子対立について。

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2007年の大河ドラマ「風林火山」が、NHK-BSで再放送されています。

武田信玄(市川亀治郎さん(四代目市川猿之助さん))の軍師・山本勘助(内野聖陽さん)の一生を描いたストーリーです。

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その武田信玄ですが、彼はなんと親を追放し、子を自害に追い込むという非道な行いをしています。

今回は、信玄が親とも子とも対立した事情に、スポットを当ててみたいと思います。

目次

信玄と父・信虎

追放は、信虎にとってはだまし討ちのようなものでした。

まず信玄は、家臣に追放を宣言して、味方につけます。そして、信虎が駿府の今川家に向かう際、国境を封鎖し、そのまま駿府に閉じ込めてしまいました。

信虎は、なぜ息子にも家臣にも見放され、駿府に追放されたのでしょうか。理由はいくつか挙げられます。

  1. 1つ目は、残虐で非道な行いが多く、家臣や領民の人気が低かった。
  2. 2つ目は、多くの戦をしたため、領民から租税をたくさん取り立て、民の暮らしが困窮し不満が多かった。
  3. 3つ目は、信玄よりも四男の信繁を愛し、家督を譲ろうとした。

信玄としては、3つ目の家督を弟に奪われそうになったことが、1番の動機でしょうか。そして家臣や領民からの人気が低かったことを利用し、追放まで持っていったのでしょう。

信虎の残虐な行いのエピソードとして「妊婦の腹裂き」があります。このエピソードは大河ドラマ「風林火山」で、山本勘助の恋人・ミツ(貫地谷しほりさん)が妊娠している時に信虎(仲代達矢さん)に殺されたというストーリーに組み込まれています。

信玄と嫡男・義信

家督を継いだ信玄は、周辺の大名の北条氏、今川氏と婚姻による三国同盟を結びます。

嫡男・義信の正室は今川義元の娘。今川義元の正室は、義信の伯母です。こうしたがっちりの親類関係なので、義信は今川家と協力し合おうと考えていた、と言われています。

しかし父の信玄は、今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にして今川家が弱体化した今こそ、攻め入るチャンスと考えていました。考え方の違う義信側の側近が、信玄を暗殺しようとしますが、信玄にばれて側近は殺され、義信は幽閉されます。

「おんな城主 直虎」第18、19回でこの幽閉事件が起こり、今川氏真(尾上松也さん)は武田信玄の真意を測りかね、混乱します。結局三国同盟は崩れ、武田は織田と新しく同盟を結び、今川家は滅亡へ向かっていくのです。

ちなみに「風林火山」は1561年の川中島の合戦で終わっていますので、1564年の義信幽閉事件は登場しません。

「おんな城主 直虎」第18、19回の詳細に関しては、こちらをご覧下さい。

おんな城主 直虎「第18回 あるいは裏切りという名の鶴」のネタバレとあらすじと感想。

おんな城主 直虎「第19回 罪と罰」のネタバレとあらすじと感想。

戦国の親子対立

武田信玄は親とも子とも対立しました。戦国時代には、このように親子で対立した例が他にもあります。

  1. 美濃(今の岐阜)の斎藤道三は、嫡男・義龍に謀反を起こされ、討ち死。
  2. 出羽(今の山形)の最上義守は、嫡男・義光と対立、義守が引退するかたちで和解。
  3. 豊後(今の大分)のキリシタン大名・大友宗麟は、父・義鑑を襲撃して殺害、家督を継ぐ。
  4. 三河(今の愛知)の徳川家康は嫡男・信康が敵と内通したため、謀反の疑いで廃嫡。幽閉して自害に追い込む。

信玄・信虎親子と1.~3.の場合、子が親に歯向かっています。例外なく当主である父親が嫡男以外を溺愛し、家督をそちらに譲ろうとしたたため、対立しました。

そして、父が嫡男を追放した例は、調べた限りでは武田信玄・義信と4.の例だけでした。もっと調べればあるのかもしれません。どちらも政治的に食い違い、強大な父によって幽閉され自害に追い込まれました。

親子間での殺し合いとは

追放された武田信虎は、『甲陽軍鑑』や『武田三代軍記』などの書物で、悪行多い非道な人物として描写されます。しかし「妊婦の腹裂き」などの非道な行いは、創作だという説があります。

武田義信については資料があまり残されていません。自害したという説と、病死したという説があります。本当のところ、信玄が義信を殺そうとまでしたのかは、分からないのです。

また、廃嫡された徳川信康は『松平記』『三河後風土記』などで、乱暴な振る舞いが多く、気性の荒い人物だったとされています。しかし『三河物語』では武勇を賞賛する記述があり、気性については書かれていません。

戦国時代は下克上の時代で、主従間や兄弟間での騙し合いや裏切りは多かったのですが、親殺し・子殺しは珍しく、醜聞の悪いことでした。そこで、殺されても仕方がない悪人だったように記録したり、記録を残さないようにしたことが多かったようです。そのため、真実が分かりにくくなってしまっています。

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