毎週日曜日20時から、NHK総合他にて放送中です。

2019年1月13日に第2回「坊っちゃん」が放送されました。

1959年、東京オリンピック招致目前の東京は、工事の影響で大渋滞。

タクシーで寄席に向かう途中の古今亭志ん生(ビートたけしさん)は、日本橋で大渋滞に巻き込まれていました。

その日、高座で志ん生が語りだしたのは50年前、日本がオリンピックに初参加することになったお噺でした。

1fab06f6b6d80738e36ae617b361d5ae_s_011419_041258_PM

1909年、日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に選ばれた嘉納治五郎(役所広司さん)は、1912年に開催される第5回オリンピックストックホルム大会にアジアで初めて、日本が参加しようと悪戦苦闘していました。

オリンピックに参加するための母体団体の設立、資金の調達、初めての派遣選手をどう選ぶのか。

日本で初のスポーツ社交団体「天狗倶楽部」の協力を得て、嘉納治五郎は動き始めますが問題は山積みで、嘉納自身が体調を崩し入院してしまいます。

それでも周囲に励まされ、なんとかこぎつけたオリンピック代表選手予選会では、悪天候のため脱落者が続出。

予選会は失敗かと思われたその時、1人の選手が競技場に帰ってきました。

その選手の名は金栗四三(中村勘九郎さん)。

日本で初めてのオリンピック代表に選ばれる選手です。

前回の第1回「夜明け前」を見逃した方は、是非こちらをどうぞ。

いだてん~東京オリムピック噺~ 第1回「夜明け前」のネタバレとあらすじと感想。

それでは、第2回「坊っちゃん」のあらすじと感想です。

1960年東京・浅草

この日、志ん生が高座で語るのは、日本人初のオリンピック選手となった金栗四三の少年時代のことでした。

オリンピック代表を選ぶ予選会で世界記録を27分も更新した金栗四三と古今亭志ん生は「因縁浅からぬ間柄」と語り出します。

なんと、生まれた年が1年しか違わない、というのです。

そんな人は、たくさんいるんですけどね。

スポンサーリンク

金栗四三・美濃部孝蔵、誕生

ここで語り手は若い頃の古今亭志ん生・美濃部孝蔵(森山未來さん)に代わります。

さらに時代は遡り、50年前1877年(明治10年)、西南戦争で激戦区となった田原坂の程近くに酒造業を生業とする金栗家がありました。

1891年(明治24年)8月20日、熊本県玉名郡晴富村の金栗家において、父・信彦(田口トモロウさん)と母・シエ(宮崎美子さん)の間に金栗四三は生まれました。

父・信彦は体が弱く、生業であった酒造業を潰してしまいましたが、子宝に恵まれ7男4女もの子供がいました。

四三はその下から2番目に生まれました。

「四三」の名は父が43歳の時に生まれた、という理由で付けられた名前です。

さらに1年前の6月5日、東京神田において、美濃部孝蔵は生まれました。

「大いに親孝行して蔵の1つも立ててくれ」と願いを込めて名付けられました。

幼い頃の四三は体が弱く、心配する父・信彦に医師は、「嘉納先生も昔は体が弱かった」と慰められます。

この「嘉納先生」とは、柔道の父、と呼ばれた嘉納治五郎のことです。

明治24年、嘉納治五郎は第五高等中学(後の熊本大学)の校長として赴任していました。

嘉納を慕う小泉八雲や夏目漱石も、後に第五高等中学の教授としてやって来ます。

四三5歳の時、まだまだ体が弱かった四三は、「嘉納に抱っこしてもらえれば体が丈夫になる」と言われ、嘉納の公開授業が見られる日に晴富村から熊本市まで10里(約40Km)の道を父と一緒に歩きました。

嘉納の授業は大盛況で、人が多くてとても嘉納に近づける状況ではありません。

親切な人に抱っこしてもらって嘉納が柔道をしている姿を遠くから眺めるだけで精一杯でした。

晴富村に帰った父は、家族に「嘉納に抱っこしてもらえた」と嘘をつきます。

家族を安心させるためについた嘘でした。

家族の笑顔に囲まれ、本当のことなど、何も言えない四三でした。

いだてん通学

尋常小学校に入学すると、四三は長い道のりを歩いて通うことになりました。

体が小さく、長い距離を兄たちについていけない四三は、学校に通うことを嫌がりますが、長兄・実次(中村獅童さん)にお仕置きを受け、いやいや通います。

ある時、長兄の嫁が出産している時の呼吸法を聞いた四三は、呼吸法に注目し始めました。

スッスッハッハッと2回吸って2回吐くと辛くないことに気づいた四三は、誰よりも早く走れるようになっていきました。

四三10歳、高等小学校に入学すると、片道3里(約12Km)を走る「いだてん通学」をしていました。

そして「とつけむにゃあ」と呼ばれるようになっていました。

「とつけむにゃあ」=とんでもない、です。

その頃の美濃部孝蔵11歳は、尋常小学校を中途退学後、飲む打つ買うのデビューを果たしていました。

ある時、金に困った孝蔵は、父の大切なキセルを質屋に売ってしまい、父に追いかけられていました。

警官である父にしつこく追いかけ回されていたのです。

四三10歳の時、父・信彦が亡くなりました。

父が亡くなる直前、長兄・実次は四三を進学させると父に報告します。

父・信彦は、四三に「四三は嘉納先生に抱っこばしてもろうたけ、生きろ、四三、父ちゃんの分まで走れ」という言葉を残し、亡くなりました。

ここで、本当のことを言おうとする四三を実次は止めました。

もはや、嘉納に抱っこされた、ということは事実になっていたのです。

1905年(明治38年)、四三は玉名中学に進みます。

中学からは寄宿舎生活。週末になると片道20Kmを走って実家に戻っていました。

当時の日本は、日露戦争の勝利の余韻に浸っていました。

四三も軍人になりたいと願うようになり、海軍兵学校に進みたいと思うようになります。

家族の賛成も得て、兵学校入学に向けて努力を始めます。

中学の先生・五条の言葉を真に受けて、抵抗力を養うために、冷たい水を15杯も被り、風邪をひきました。

それでも冷水浴を続け、兵学校入学に向けて切磋琢磨の日々を送りました。

しかし、学力試験の前の身体検査で引っかかり不合格になってしまいます。

落ち込んでいる四三の前に医者の娘・春野スヤ(綾瀬はるかさん)が現れます。

父が亡くなる前、医師であるスヤの父を呼びに四三はスヤの家に行っており、そこで出会っていたのです。

目の検査で不合格になり落ち込む四三に、スヤは「丈夫ならそれでよかたい、将来四三さんの嫁になる人は喜びます」と言います。

「丈夫な体はお国のために使うか、自分のために使うか、決めるのは四三さんたい、自由たい」といいます。

四三はその言葉に解き放たれたように心が軽くなりました。

東京・吉原で豪遊していた孝蔵は、落語・付き馬(遊郭の勘定の足りない客の家までついて行って金を取り立てる若い衆の噺)のように支払いを迫られて困っていました。

たまたま道端にいた顔見知りの遊女・小梅(橋本愛さん)を見つけた孝蔵は、小梅を囮に使いまんまと若い衆を巻くことに成功。

しつこく追う若い衆から逃げるために入った寄席で、孝蔵は橘家円喬(松尾スズキさん)の噺を聞きました。

そこで、感動した孝蔵は、円喬を生涯の師と仰ぎ、弟子になることに決めたのです。

場面は1960年、志ん生の高座に戻り、志ん生は当時の自分について語ります。

「こちとらも、付き馬から逃げていやいや走った挙句、生涯の師匠に出会えたんですから、たまにはスポーツも悪くねえもんです。」と締めくくりました。

四三は、寄宿舎の同室で親友でもある三河秀信(勝地涼さん)が受験する東京高等師範学校の

校長が、幼い頃憧れた嘉納治五郎であることを知り、興味を持ち始めます。

次回の第3回は、「冒険世界」

家族や幼馴染のスヤと離れ、嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校に進学、家族の期待を一身に背負って上京した四三。

東京には天狗がいたと驚きます。

そしてスポーツとしての長距離走・マラソンとの出会い。

とうとう嘉納治五郎と出会い、四三がマラソンを体験します。

オリンピックに向けての第一歩を踏み出すお話です。

付き馬に追われて入った先の寄席で、落語に魅入られた孝蔵が、無事に橘家円喬の弟子になれたのかも気になるところですね。

次回1月20日放送の第3回「冒険世界」、楽しみです。