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いだてん~東京オリムピック噺~第17回「いつも2人で」のネタバレとあらすじと感想

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2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。

前回第16回は、主人公・金栗四三(中村勘九郎さん)が、教師になる道を捨て、結婚したての妻・スヤ(綾瀬はるかさん)を熊本に残し、ストックホルム大会の雪辱を果たすため、マラソン一本で生きると決め、厳しい練習に明け暮れるお話でした。

甘えを失くし、マラソン三昧の日々の中で、四三は選手としてのピークを迎えていました。

1914年春、教師にはならずマラソン一本で生きると決めた四三は、東京高師の校長である嘉納治五郎(役所広司さん)の好意により、高師の研究科に籍を置きつつ、ベルリンオリンピック出場を目指し、練習の日々に明け暮れていました。

高師の寮にいられなくなった四三は、播磨屋の2階に下宿し、練習三昧です。

四三が試し、播磨屋の店主・黒坂辛作(三宅弘城さん)が改良を加えてできた「金栗足袋」は、高師のみならず明治や早稲田の学生らが買いに来るほどの人気になっていました。

無職の四三の生活を支えるのは養子となった池部家からの仕送りです。

四三は後輩たちの身体作りのため、練習後には豚鍋などを振る舞い、後輩育成にも力を注いでいました。

一方、尊敬する師匠・橘家円喬(松尾スズキさん)に言われて一緒に旅回りをすることになった新しい師匠・小円朝を殴り追い出された美濃部孝蔵(森山未來さん)は、噺家仲間の万朝(柄本時生さん)とともに宿屋で豪遊していました。

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孝蔵のあまりの豪遊っぷりにお金の心配をする万朝ですが、案の定、孝蔵は一銭のお金も持っていなかったのです。

それを知った万朝は宿屋から逃亡、孝蔵は無銭飲食で牢屋に入ることになりました。

そこで寝ていた男が被っていた新聞の記事で、尊敬する師匠・円喬が亡くなったことを知った孝蔵は、唯一自分を認めてくれた師匠の死に愕然とし、号泣するのでした。

ちょうどその頃、オリンピックマークが出来上がり、嘉納は四三やミルクホールに勤めていた三島家の元女中・シマにマークについて説明しました。

カラフルな5つの輪が重なるそのマークは、ヨーロッパ・アメリカ・アフリカ・アジア・オセアニアの結合と連帯を意味していると語ります。

四三や三島が遠く離れたストックホルムで戦った功績だと聞かされ、四三は喜びました。

しかしその頃、サラエボ事件が発生し、欧州は戦禍に巻き込まれていました。

牢に入れられた孝蔵は、同室の牢名主(マキタスポーツさん)相手に芸を披露するのですが、途中で寝られてしまいショックを受けます。

感想を聞いてみたら、浜松勝鬨亭で話を聞いていたまーちゃんと全く同じセリフで面白くないというのです。

その頃のまーちゃんは、慢性盲腸炎と胃腸カタルを併発し、水泳競技者としての道は諦めなければならない状態になっていました。

このまーちゃんは、『いだてん~東京オリムピック噺~』の二人目の主人公・田畑政治のことでした。

孝蔵は、牢の中で面白い話とは何かと考えます。

面白い話は面白そうにやれ、とアドバイスを受けた孝蔵は気持ちを込めて演じるのですがそれでもダメ。

勝鬨亭のちいちゃんのはからいで牢から出られた孝蔵は小円朝の元に戻り、一から修行のやり直しです。

その頃の四三は、ベルリンオリンピックに向けて順調に練習を進めていました。

炎天下の海辺を走る耐熱訓練に加え、水しぶき走法で練習を重ねた四三は、大会で世界新記録をマークし、優勝を果たしました。

四三25歳、選手としてピークを迎えていたのです。

四三の頑張りは分かっていてもやはり離れ離れは寂しいスヤは、義母・幾江(大竹しのぶさん)に背中を押されて東京まで四三に会いにやってきました。

しかし、甘えは堕落の入口、として四三はスヤを追い返してしまいました。

そうして自分を追い込み、すべてを投げ打ってマラソン一本で頑張ってきた四三に大きな壁が立ちはだかりました。

サラエボ事件から始まった欧州全土を巻き込んだ戦争がさらに激化。

オリンピックベルリン大会中止の知らせがもたらされたのです。

前回第16回「ベルリンの壁」を見逃した方は、ぜひこちらをどうぞ。

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それでは、第17回「いつも2人で」のあらすじと感想です。

目次

オリンピックベルリン大会 中止

四三は大日本体育協会に呼び出されていました。

嘉納はこれまでの四三の頑張りを労い、マラソンの記録を次々と塗り替える成長ぶりを褒め讃えます。

ストックホルム大会での敗北を経て、成長したと嘉納に言われ喜ぶ四三。

嘉納は岸清一(岩松了さん)から「なぜ言いにくいムードに…」、と言われながら、それを遮るようにわかっていると叫びます。

嘉納や大体協委員の様子がおかしいと訝しむ四三に、嘉納は「ベルリンオリンピックは中止」と告げたのです。

それは、欧州戦争の長期化が原因でした。

「無念」と言う嘉納の言葉に四三は呆然として言葉もなく、そのまま崩れ落ちました。

嘉納は涙を流し、悔しがりました。

四三は部屋にこもり、全く出てきません。

高師の仲間たちは、オリンピック中止の知らせを聞き、四三を心配して播磨屋に集まってきました。

しかし、誰にも姿を見せず、部屋にこもる四三。

仲間の一人・徳三宝(阿見201さん)が四三の部屋の襖を強引に突き破ると、そこには抜け殻のように膝を抱えて座る四三の姿がありました。

新聞でオリンピック中止を知ったスヤは、幾江に許可を取り、すぐさま東京に向かいました。

その際、幾江は「スヤとマラソンとどちらが大事か聞いてみればよか」とスヤを焚きつけます。

今なら勝てるかも知れないから、四三を連れて帰って来い、という幾江にスヤは頷き、東京までやってきたのです。

スヤが播磨屋へ到着すると、階段から四三や高師の仲間、車夫の清さん(峯田和伸さん)が転がり落ちてきました。

清さんは転がる四三に馬乗りになり、車夫である自分は、行き先を自分で決められず客の言うとおりに走らなければいけない、読み書きも力仕事もできない自分たちは走ることしかできない、四三は自分たちの代表、日本代表なのだから、四三が腐っていたら日本人みんなが腐ってしまう、と四三を励ますのです。

しかし四三は、そんな清さんの言葉に耳を貸さず、自分はオリンピックのために4年という約束で家族の援助を受けて頑張ってきた、「これ以上は迷惑かけられん」と叫び返します。

その言葉を聞いたスヤは桶に冷たい水を汲み、四三にぶっかけます。

「この人は、冷たい水をぶっかければ大人しくなりますから」

スヤの支え

スヤの作ってきたいきなり団子を食べ、四三は少し落ち着きました。

食べたら熊本に帰るか?と聞くスヤに何も答えず首を横に振る四三。

スヤは、田植えがあるから一人で帰る、と四三に背を向けます。

背を向けたスヤに、四三はベルリン大会のために覚えたドイツ語「ダンケシェーン(ありがとう」と告げます。

スヤは、自分はオリンピックがなくなっても構わない、金メダルもいらないと言います。

しかし、金メダルを取ったら四三が喜ぶから、四三の喜ぶ顔が見たくて応援しているのだとスヤは告げます。

「さみしくないのか?」と聞く四三に、スヤは、そばにいたら邪魔になるから、と身を引こうとします。

四三は「おるは、さみしか」といい、これまで頑張ってきた折にはいつもスヤを思い出していたと会いたかったのだと本音をぶつけます。

金メダルを取っておしまいにしようと思っていたと言います。

「悔しか…なあし戦争せんとといかんとか、悔しか…」という四三に、スヤはだったら熊本に帰ろうと誘います。

「終わったと思ったら帰れますか?」といい、スヤはオリンピックは終わりました、と四三に言います。

「金栗選手、金メダル、おめでとう」と叫ぶスヤに四三は弱々しく微笑みます。

本当なら、金メダルを取ったのなら四三はもっともっと笑う、とスヤは四三の頬に手を添え笑わせようとしますが、四三はいつもの笑顔を、見せません。

もっと笑え、というと、四三は終わってもいないのに笑えない、と弱々しく返しました。

始まってもいないのが、終わるわけがない、と言うスヤに、四三はオリンピックが中止になってから初めて涙を見せ、スヤにすがりついて泣きました。

スヤの言葉で落ち着きを取り戻した四三は、スヤに自転車で伴走してもらい、また走り始めました。

その頃、野口源三郎(永山絢斗さん)らは、スヤの存在について驚き噂をしていました。

清さんは「あんなマラソンバカが結婚できたら世も末だぜ」と笑います。

その夜、四三はスヤと枕を並べて寝ながら、先のことを考えなければ、と呟きました。

スヤは、2人の今後のことを考えるのですが、四三は、日本マラソン会の、ランナーとしての自分の後継者について考えていました。

呆れるスヤは、四三が50人いればいいのに、と言ってしまいます。

それを聞いた四三はひらめきました。

ランナーから指導者に

翌日、四三は嘉納の元を訪れ、指導者になる、と宣言します。

もし、自分が50人いて、大会があったら、金メダルを50個取れるのに、と四三は嘆きます。

四三は嘉納に、大阪から東京まで、500Kmという長距離も、何人もの人がいたら走れる、と熱弁をふるいます。

嘉納は、マラソンが広く普及しないのは、長距離を一人で走る過酷さと孤独が原因ではないかと考えていました。

しかし、団体競技として支えあえばマラソンは普及するのではないかと思いつきました。

いつか、東京大阪間をマラソンで繋げるように、後輩たちを育成するために指導者になるという四三に、嘉納は、「新たな目標が見つかったな」と四三の肩を力強く叩くのでした。

選手を諦めたまーちゃん

その頃、浜松のまーちゃんこと田畑政治はやさぐれていました。

慢性盲腸炎と胃腸カタルを併発し、医者から水泳を禁じられてしまったからです。

やさぐれたまーちゃんを孝蔵は浜名湖に突き落とし、「医者の言うことを鵜呑みにするなんざ、愚の骨頂だに」というと、踵を返してしまいました。

新たな目標

1916年、四三は神奈川師範に教員として着任しました。

担当は地理です。

放課後は、生徒にマラソンを指導します。

指導者として四三はマラソンの練習方法の確立、足袋の改良に力を注ぎました。

寸暇を惜しんで後輩たちと走る四三。

東京・大阪間をマラソンで走り繋ぐ、という夢に向かって動き始めました。

ミルクホールで四三と嘉納が打ち合わせをしていると、話が聞こえてしまった、として読売新聞社の記者・大村と社会部長の土岐が話しかけてきました。

彼らは、京都から東京に首都が移ってちょうど50年の記念に、画期的な運動会ができないかと考えていたのです。

読売新聞運動部の相談役として現れたのは、元天狗倶楽部の吉岡(満島真之介さん)でした。

吉岡も計画に加わり、読売新聞社主催の長距離マラソンの企画が動き始めました。

大阪ではなく、京都から、東海道五十三次を辿ったらどうかという案が出てきました。

やじさんきたさんがたどったというコースをマラソンで走ろうというのです。

嘉納は、晴れ渡る空の下、眼下に広がる東京の街を見下ろしながら、次なる目標として、いつかオリンピックを東京で開催すること、と、東京にオリンピックが開催できる大規模な競技場を作ろう、という新たな目標を立て、決意を固めたのでした。

スポーツは国力の証、スタジアムはそのシンボル。

招かれるのを待っていてはつまらん、各国の選手を招くんだ、と嘉納は息巻きます。

早速大体協の理事を召集するのですが、理事たちの意見は否定的な意見ばかり。

嘉納は、もう大体協は解散かと脅しをかけます。

すると、読売新聞社が主催ならばと、理事たちも賛成し始めました。

決まったのは、京都・東京間516Kmを23区間に分けて走るという競技です。

名称で様々な案が出るのですが、東海道五十三次の駅を伝わって走るという大会だから、「駅伝」

名称は、「東海道五十三次駅伝競走」に決まりました。

その大会で、四三はアンカーを務めます。

大会の詳細が決まっていくのを見ていたシマは、「女子の参加選手はいないのですか」と吉岡に尋ねます。

しかし吉岡は、女子の走りは不細工、遊びではない、とシマの言葉をまともに取り合いません。

嘉納ですら、女子の体は走ることには向いていない、と保守的な意見を持っていました。

落ち込むシマに四三は二階堂トクヨ(寺島しのぶさん)に相談してみてはと助言します。

しかし、トクヨは「女子がマラソンなど西洋では時代遅れ、貧乏人の競技」と言い、やはりシマの言葉を取り合いません。

四三は怒り、マラソンの魅力が全く伝わっていないと嘆きました。

その頃、熊本の池部幾江(大竹しのぶさん)は、スヤが東京に行ったっきりで熊本に戻ってこない、と嘆いていました。

そのいらだちを実次(中村獅童さん)にぶつける幾江。

この2人の掛け合いは、緊張感がほぐれ、非常に場を和ませてくれますよね。

四三は、駅伝競走に向けて準備を進めます。

タスキを繋ぐことを思いつき、辛作にタスキ作成を依頼します。

さらに、足袋の改良として、こはぜで止めるのではなく、紐で縛ることを提案します。

紐で縛ったらもはや足袋ではなく靴だ、と難色を示す辛作に、スヤは辛作が作ればそれは足袋だ、と言い切り、制作を承諾させたのです。

東海道五十三次ぎ駅伝競走 開催

1917年(大正6年)4月27日、日本初の駅伝レース、東海道五十三次駅伝競走は開催されました。

京都・草津・水口・四日市・桑名・名古屋・岡崎・豊橋・浜名湖とコースは続きます。

しかし、コースの途中には大きな浜名湖。

一体どうやって渡ったのでしょうか。

それを実際に見ていたのは、浜松のまーちゃんでした。

1960年、東京オリンピック開催に向けて、聖火リレーのコースを考えていた田畑政治(阿部サダヲさん)は、かつての駅伝の資料を読んでいました。

田畑は、東龍太郎(松重豊さん)や岩田幸彰(松坂桃李さん)らに、この駅伝を実際に見ていたと話します。

このコースでは、浜名湖を渡らなければならず、どうやって渡るのか興味深く見ていたというのです。

浜名湖はやはり走っては渡れず、舟で渡してもらうため、選手らは申し訳なさそうにただ乗っていた、と田畑は笑いながら話します。

岩田は、変な駅伝だと、資料を見ながら呟きました。

各区間を担当した選手は、タスキを渡した後、ランナーとともに走って東京まで移動する、と書いてあったからです。

なんだかいろいろおかしなレースですね。

駅伝の13区の選手がアキレス腱を切ったとの報告が入りました。

大会本部は14区の選手を13区まで戻し、走らせると決定しました。

40Kmの距離を走らなければならないため、役員はその選手の心配をするのですが、本部にいた四三は、14区を走る秋葉は自分の後輩だから大丈夫、と太鼓判を押します。

そして、29日午前10時5分、京都から483Km地点の川崎からアンカー・四三が走り始めました。

そしてゴール地点は日本橋を通って上野です。

午前11時、日本橋では日本初となる駅伝競走をひと目見ようとたくさんの人々が詰めかけ電車は立ち往生。

スヤも四三の姿を見ようと、人ごみを掻き分けてゴール付近に向かいます。

シマも四三の応援に駆けつけていました。

日本橋は「駅伝」コールに包まれ、大盛況です。

そして四三も大勢の観客を掻き分けてゴールに向かってきました。

516Kmもの距離を総勢46人ものいだてんが駆け抜けるという運動史上未曾有の計画を無事成し遂げ、世界的な快挙を成し遂げたのです。

そして、スヤは熊本に戻ってきました。

幾江が満面の笑みで実次の元を訪れました。

東京から熊本に帰ってきたスヤの体調が悪いので医者に見せたところ、懐妊しているというのです。

池部の家は安泰、と幾江は喜び、東京の四三も熊本に向かって、「でかしたー」と大声で叫ぶほど喜んだのでした。

次回、第18回「愛の夢」

いよいよ女子スポーツも黎明期を迎えます。

女子も自由に体を動かす時代が来たと、トクヨが叫び、シマも張り切ります。

美濃部孝蔵も東京に戻り、何やら波乱の様子。

久しぶりに小梅や美川も登場し、夫婦の危機?

次回第18回「愛の夢」、目が離せませんね。

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