大阪道頓堀にあるグリコの大きな看板、ご存知ですか?

ゴールに走り込んでくるようなあのポーズ、有名ですよね。

諸説ありますが、実はあれ、金栗四三がモデルになったと言われているんです。

さらに、オリンピックストックホルム大会に出場した金栗四三には、誰も破れないすごい記録があるってご存知でしたか?

2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主人公の一人、金栗四三は、お正月の風物詩、箱根駅伝の創設に尽力したり、「金栗足袋」と呼ばれるマラソンシューズの開発をしたりと様々な逸話・エピソードが残されている人物です。

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日本人初、オリンピックに参加、「マラソンの父」と称される金栗四三とは一体どんな人物だったのでしょうか?

生い立ち

金栗四三は、1891年8月20日、熊本県玉名郡晴富村(現・和水町)で生まれました。

生家は酒造業を営んでいました。

父・信彦、母はシエ。8人兄弟の7番目として生まれました。

「四三」という名の由来は、父が43歳の時に四三が生まれたからだそうです。

小さい頃は体が弱かったのですが、小学校に入学する頃には元気になり、地元の吉地尋常小学校に入学します。

10歳になると、玉名北高等小学校に入学することになり、往復12Kmの距離を毎日走って登校したといいます。

後に、マラソンを始めたのはいつからですか、と聞かれると、東京高等師範の2年生からです、と答えていますが、その基礎を培ったのは高等小学校時代の一里半の通学だったと答えています。

1905年3月4日、父・信彦が病気のため56歳で亡くなりました。

1905年4月、13歳になると玉名中学校(現在の玉名高校)に進学。

成績が優秀だったため、授業料免除の特待生として選ばれました。

この時は実家ではなく寮で生活していましたが、実家に帰省する時は、20Kmの距離を走って帰ったそうです。

卒業後の進路として、海軍兵学校を目指しますが、角膜炎の為不合格となり、滑り止めで受けていた東京高等師範学校(現在の筑波大学)に進学することになりました。

そこで、生涯の師と仰ぐ嘉納治五郎と出会うことになります。

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嘉納治五郎との出会い

嘉納治五郎は、東京高等師範学校の校長を務めており、講道館柔道の創始者であり、柔道を始めとするスポーツ・教育分野の発展に尽力した人物です。

幼い頃から勤勉で努力家、将来の教育者としての素養が十分にあった嘉納は、最年少で官立開成高等学校(現東京大学)に入るという快挙を成し遂げました。

しかし、体が弱く小さいのに勉強ができる嘉納はいじめの対象にされ、苦難の日々が続きました。

そんな中で、体が小さくても大きな体の人を倒せる柔術に興味を持ち、体を鍛えることが精神をも強くするという信念を持つようになりました。

やがて教育者となった嘉納は、体育教育の重要性を説き、教育の中に積極的にスポーツを取り入れるようになったのです。

1893年、東京高等師範学校の校長となった嘉納は、学生たちの心身を鍛えるためにスポーツを推奨し、年2回の長距離走大会を開催、水泳教育にも力を入れました。

柔道を通じて日本への理解を深め、国際間の協調を目指していた嘉納の情熱は、嘉納を始めとする門下生のたゆまぬ努力により、柔道を海外に普及させることに成功しました。

日本の柔道を海外に普及させるだけでなく、海外のスポーツを積極的に教育の場に用いる嘉納の活動が評価され、また、「スポーツによって平和でより良い世界の実現に貢献する」という理念を持ったフランスのクーベルタン男爵が嘉納の信念に共感したため、嘉納はアジア人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に選出されたのです。

そして1909年、嘉納はその大役を引き受けることになりました。

まだ、日本にオリンピックが浸透していない時期のことです。

1912年に開催されるオリンピックストックホルム大会に日本は初参加を求められ、嘉納は初めてのことばかりで、問題が山積みではありましたが、オリンピック参加を目指して、動き始めました。

そして1911年、ストックホルム大会のためのオリンピック予選会が開催されることになったのです。

嘉納治五郎がIOC委員に選出され、ストックホルム大会に向けて走り出した頃の1910年、東京高等師範学校に入学した金栗四三が1年の春、長距離走大会(12Km)を25位、秋の長距離走大会(24Km)では3位を獲得。マラソンへの適性を見せました。

この結果を嘉納は大絶賛したといいます。

嘉納は金栗の才能に目をかけ、熱心にマラソンへの道に勧誘しました。

1911年、2年になると金栗は徒歩部(陸上部)に入部。本格的にマラソンを始めました。

金栗はクラブ活動だけでなく厳しい自主練習に励み、日本有数のマラソンランナーへと成長していきます。

その年の11月、羽田運動場で開かれた国際オリンピック大会予選会に出場した金栗は、25マイルマラソンに出場し、当時の世界記録を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を達成しました。

マラソン用シューズなどなかった時代、金栗はシューズの代わりに足袋を履いて出場していました。

しかし、足袋に穴が空き途中素足になるというアクシデントに見舞われます。

それでも、当時の世界記録を上回る大記録を叩き出したのです。

そして、学生71名その他選手20名の計91名が参加したオリンピック予選会において、短距離で3冠を果たした三島弥彦とともに、長距離で優勝した金栗四三は、日本人初のオリンピック代表選手に選ばれたのです。

ストックホルム大会参加に向けて

オリンピックの日本代表に選ばれたものの、金栗も三島も参加に難色を示していました。

エリート家庭に育った三島は、陸上の短距離、つまりかけっこごときで海外へ行ってもいいのかと悩み、金栗は高額な自己負担金1800円を支払うことが難しく、参加を辞退しようとしていました。

しかし、その時に嘉納がかけた言葉に感銘を受け、金栗はオリンピック参加を決意します。

その言葉が「捨石や礎になることは辛いことだが、誰かがやらなければいつまでも日本は欧米に追いつくことはできない。ここを逃せば次はまた4年も待たなければならない。日本のスポーツ界のために黎明の鐘になってくれ」でした。

嘉納の「黎明の鐘」という言葉は金栗の胸に深く響きました。

金栗は兄の金栗実次に自己負担金1800円の用立てを頼みました。

この1800円というお金、現在では500万くらいだというのです。

実次は、金栗の代表選出を大変喜び、田畑を売っても渡航費用を用意すると、お金を用立てるために奮闘します。

その話を聞いた東京高等師範学校寄宿舎の舎監であった福田源蔵は、金栗四三後援会を立ち上げ、渡航費用のための寄付金を集める活動を開始しました。

福田自身が必勝祈願を込めて11円11銭を寄付すると、金栗のために方々から1500円もの寄付金が集まりました。

このおかげで兄・実次は300円ほどの負担を負うだけでなんとか費用を賄うことができたのです。

金栗は、マラソンの練習はもちろん、日本選手団監督の大森兵蔵の妻から英会話を習うなど、外国大会への努力を続けます。

ストックホルム大会に向けて、予選会で破れてしまった足袋を改良するために、近所の「播磨屋足袋店」の店主・黒坂辛作とともに、足袋の底を3重に重ね、破れにくく改良したマラソン足袋の開発に成功。

オリンピックストックホルム大会に向けて、厳しい練習を続けます。

最後に

「マラソンの父」金栗四三の生涯の序盤をご紹介いたしました。

幼い頃に6Kmもある小学校まで駆け足で通学していたため培われた健脚は、その後中学、高校でもさらに磨きがかかり、ついにはオリンピック代表選手にまで上り詰めました。

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」では、兄・実次の嫁がお産をしているのを覗いていた時に呼吸法に気づき、スッスッハッハッというリズミカルな呼吸法を思いつき、それからどんどん金栗の足は速くなっていきました。

諸説ありますが、この呼吸法は幼少期からのものである、というのと、オリンピック予選会のあたりに編み出されたとの説があります。

あの、少し前傾姿勢で腕の振りが小さい独特のフォームも、フルマラソンを走るにあたって研究開発したフォームであるとの説もあります。

どちらにしても、幼少期からの研究・努力が実り、ストックホルム大会が決まった金栗。

日本人初のオリンピック参加は一体どのような結末になったのでしょうか?