2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主人公の1人・金栗四三は、第5回オリンピックストックホルム大会の予選会で見事優勝を勝ち取り、代表選手に選ばれました。

資金難のため、一度は出場辞退を申し出るのですが、恩師・嘉納治五郎の「黎明の鐘になってくれ」という言葉に感銘を受け、出場を決めました。

しかし、オリンピック初参加の日本勢。

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初めてのことばかり、手探り状態で全てにおいて問題だらけ。

金栗の初オリンピックは一体どうなってしまうのでしょうか?

ストックホルムへの旅立ち

1912年5月16日、監督・大森兵蔵とその妻アニー(日本名・安仁子)、短距離の三島弥彦、マラソンの金栗四三の4人は、ストックホルムへ向けて出発しました。

17日間かけての旅は、新橋から汽車で福井県敦賀へ向かい、敦賀から船でウラジオストックへ、更にシベリア鉄道でサンクトペテルブルクへ。

そこからまた船でフィンランドのヘルシンキを経由してスウェーデンの首都・ストックホルムへ到着という過酷な旅でした。

シベリア鉄道の中での10日間は、持参したパンと缶詰で食いつなぐという生活でした。

疲労が蓄積し、ようやく到着したのは翌月2日。

ストックホルムの日本大使館が用意した宿舎は、部屋が狭く食事も日本人の口には合わず、また、運悪く白夜の時期にあたり体調管理が上手くいかず、周りが全て外国人という環境に選手団は疲弊していくばかりでした。

6月28日に日本選手団団長の嘉納治五郎がストックホルムに到着すると、彼らは不安そうな様子で窮状を訴えたといいます。

三島は、他国の選手が皆180cmを超える大柄で、日本では背が高かった174cmの自分が小さく遅く感じられ、自信を失っていました。

金栗は、ストックホルムの石畳の舗装道路に慣れておらず、練習で膝の筋肉を痛めたばかりか、持参した足袋の底が割れてしまい、困り果てていました。

足袋はすぐに日本から取り寄せるものの、膝の痛みで満足な練習はできません。

嘉納は、初めての参加とはいえ余りにも酷すぎる選手たちの環境に、まだまだ自分が努力しなければいけないと強く感じました。

同じ選手でもアメリカの選手は、国からの十分な補助を得て、選手たちが過ごしやすいように環境を整えていたのです。

大日本体育協会会長として、日本のスポーツ界もアメリカのようにならなければならない、日本のスポーツ界のあり方を変えていかなければ、と嘉納は考えていました。

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ストックホルム大会開催

そうして、ストックホルム大会が始まりました。

7月6日、ストックホルム・オリンピックスタジアムは3万人の観衆で埋め尽くされていました。

28の国と地域から2407人の選手が参加するストックホルム大会。

日本はアジアからの初参加、9番目に入場します。

この時、日本選手団の監督を務める大森兵蔵は、持病でもあった肺の病が悪化していました。

過酷な長旅の疲れもあったようです。

団長の嘉納は、大森の体を気遣い、開会式の行進など出なくていい、と言ったのですが、大森は日本代表としてここまで来たからには開会式を欠席など面目が立たないと言って行進に参加したのです。

この時、ローマ字で「NIPPON」と書かれたプラカードを金栗が持ち、日の丸の旗を三島が掲げて入場しました。

この「NIPPON」というプラカードは嘉納の提案で決まったもので、このストックホルム大会でしか使用されていません。

次の大会からは「JAPAN」というプラカードに変わっています。

これは、金栗が「JAPAN」という表記を嫌がったため、嘉納が提案したのだといいます。

この式の後、同じスタジアムで短距離の予選が始まりました。

三島は100m、200m走の予選に出場、自己新記録を出すのですが、結果は最下位。

予選敗退に終わりました。

400mは右足の痛みのため棄権しました。

外国人選手との差をまざまざと見せつけられる結果となりました。

マラソン競技当日

そして、マラソン陸上競技当日。

7月14日、北欧とは思えぬ日差しの強さで、気温はぐんぐんと上がり40度に到達していました。

出場予定の98人中スタートラインに立てたのは66人。

体調を考えて棄権する選手も数多くいました。

そんな中、スタートした金栗の走り出しは好調で、日本選手団の期待が高まりました。

外国人ランナーのハイペースに巻き込まれ、いつもの自分のペースを作れなかったにも関わらず、最高17位まで順位を上げ健闘していました。

しかし、折り返しを過ぎたあたりで調子が悪くなり日射病を発症して倒れ、沿道のスウェーデン人、エルジェン・ペトレの家の庭に迷い込み、そこで手当を受けることになりました。

会場で金栗の帰りを待っていた嘉納や大森は、途中経過を示す掲示板に金栗の名が出てこないことに、やきもきしながらひたすら待っていました。

3時間過ぎても帰らない金栗を心配した嘉納らは、金栗に何かあったのかもしれないとホテルに戻ることになりました。

この日、ストックホルムは猛暑となり、日本と同じくオリンピック初参加だったポルトガルのフランシスコ・ラザロ選手が熱中症で亡くなってしまいました。

元は新聞配達員で、国内大会では優勝経験があるほど人物でした。

マラソン完走者はわずか34人。多くの選手が途中棄権となりました。

嘉納らがホテルに戻ると、金栗はもう部屋に戻っていました。

介抱してくれた家の人が金栗の様子が落ち着くのを待ってホテルまで送り届けてくれたのです。

思えば、初参加のオリンピックは苦難の連続でした。

長旅の疲れ、慣れない場所での食事、言葉の問題、白夜による睡眠不足、コーチ不足のため、満足に出来ない練習、慣れない石畳、すぐに破ける足袋、さらには、マラソン当日、車が迎えに来ないというアクシデントに見舞われ、競技場まで走らなければならなかったことなど、全て経験不足、準備不足のために起こった事態でした。

2人とも思い描いたような結果を残すことはできませんでしたが、この大会に参加したことは、日本が国際的な桧舞台に一歩を踏み出すきっかけとなりました。

落ち込む選手2人に嘉納は「ふたりには誇りをもってもらいたい」と言葉をかけました。

世界のレベル・技術を知り、目の当たりにできて大いに刺激を受けたことは、大成功であったと労ったのです。

そのまま、閉会式を待たず、金栗、三島、嘉納はストックホルムを離れました。

「金栗棄権」の知らせは大会本部に届かず、金栗はレース中に行方不明になった日本人として、地元でしばらく語り草になったといいます。

帰国

三島は東大総長のすすめで、ヨーロッパ諸国を巡りました。

日本が国際レベルに追いつくために、必要な用具を行く先々で見つけては日本に送り、次のオリンピックのために日本の陸上界に役立てようとしました。

嘉納もまた、ヨーロッパ視察に旅立ちました。

日本選手団監督としてストックホルム大会に参加していた大森兵蔵は、病気療養のために立ち寄った妻の故郷アメリカ・カリフォルニア州パサデナで、肺結核のために亡くなりました。

1913年1月13日、まだ36歳の若さ、早すぎる死でした。

1912年9月15日、神戸港に到着した金栗を出迎える人々はほとんどいなかったといいます。

7月30日に明治天皇が崩御していたため日本中が悲しみに溢れ、オリンピックの話題がテレビやニュースで取り上げられなかったためです。

最後に

金栗と三島のオリンピック初参加の結果は思い描いたものではなく、惨憺たるものでした。

しかし、この経験が後のオリンピックに大変役に立つことになります。

自分たちのレベルを知り、練習方法を工夫し弱点を克服。

外国選手たちが履いていた専用シューズを参考に、金栗は播磨屋足袋店の店主親子の協力を得て、後の日本人選手たちが使用したという金栗足袋の開発に勤しみます。

そして、まだ少なかったマラソン人口を増やすために、普及活動にも力を注ぐようになります。

金栗22歳。

金栗のオリンピックはまだまだ続きます。