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いだてん~東京オリムピック噺~の主人公、金栗四三の生涯 その3

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ストックホルム大会を終えた金栗は、すぐに次の大会に向けて気持ちを切り替えます。

しかし、そんな金栗に過酷な試練が待っていました。

目次

ベルリン大会に向けて

ストックホルムから帰国した金栗は、すぐに次のベルリン大会に向けての練習を開始、後輩への指導にも力を入れるようになりました。

そんな中、金栗23歳の時、養子の話が持ち上がりました。

金栗に養子の話を持ち込んだ人は、池部幾江という人物で、元は金栗家と親戚関係にありました。

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熊本県玉名郡小田村にある大地主・池部家に嫁いだのですが、早くにご主人を亡くし未亡人となっていたのです。

子供がおらず、池部家に後継が欲しいということで、四三の兄・実次に四三を養子に欲しいと頼み込んだのでした。

高等師範学校卒業目前の頃、金栗はベルリン大会を目指すために、師範学校の研究科への進学を希望していました。

進学が認められた金栗は、ベルリン大会に向けてより一層の努力を重ねます。

そのため、東京で練習を続けるという条件で、養子になることに決めました。

金栗が承知したことで、池部幾江は金栗の妻となる人物を探しました。

そして見つかったのが春野スヤです。

金栗が東京高等師範学校卒業後に見合い、そしてすぐに結婚に至りました。

金栗23歳、スヤ22歳の時のことでした。

どうやら、見合いの翌日に結婚というスピード結婚だったようですね。

史実では、池部幾江には子供はいなかったのですが、「いだてん~東京オリムピック噺~」では、池部重行(高橋洋さんが演じます)という息子がいたという設定になっています。

スヤは重行の嫁として池部家に嫁いだのですが、病弱だった重行がスヤを残して亡くなったため、金栗を養子に迎え、スヤと娶せた、ということになるようです。

スヤと結婚した金栗ですが、ベルリン大会に向けて邁進するため、妻を熊本に残し東京に戻ります。

ストックホルム大会で経験した猛暑・海外での食事事情・石畳等の硬い路面への対応策等、全てに対応できるように練習を続けます。

それと同時に、マラソン普及のため、師範学校の先輩同輩が赴任している地方の学校へ出張指導も行いました。

本来ならば働いているはずの23歳。

しかし、金栗は義母・池部幾江からの経済支援を受けてマラソンに専念していました。

1916年のベルリン大会を目指して猛進していた金栗に悲報が舞い込みました。

第一次世界大戦が勃発、その影響によりベルリン大会が中止になったというのです。

金栗26歳、年齢的にも能力的にも充実し、大会でのメダルも期待されていた競技適齢期でしたが、戦争によってその機会を奪われてしまいました。

マラソンの普及に力を注ぐ

ベルリン大会は中止となりましたが、4年後のアントワープ大会に向けて、金栗は始動しました。

校長の嘉納治五郎に今後の進路について相談すると、教員として働きながらマラソンを続けるという道を示唆されました。

東京高等師範学校研究科を卒業すると、金栗は神奈川師範学校に地理教師として赴任することになりました。

1年間神奈川師範学校に務め、自身のトレーニングとともに、次代のマラソン選手の育成や普及に力を注ぎました。

第一次世界大戦の頃のことです。

徴兵制度により金栗も徴兵検査を受けましたが、第1乙種となり、兵役を免れました。

これには、長兄・実次が、四三はマラソンで国に奉仕する、と村長を通じて軍部に根回しをしていたからです。

その後1917年、独逸学協会中学に5年ほど勤務しました。

箱根駅伝の発祥

1917年は、東京奠都50年目で、東京奠都50年記念博覧会の協賛事業として、東海道五十三次をリレー形式で走るというイベントが読売新聞により計画されていました。

協力を求められた金栗は、嘉納治五郎を大会長に据え、大会開催に尽力しました。

1917年4月27日から29日の3日間かけて京都-東京間を走る「東京興都記念東海道五十三次駅伝徒歩競争」が開催されました。

京都の三条大橋を午後2時にスタート。

東軍(東京高等師範学校)と西軍(愛知県第一中学・現愛知県旭丘高等学校を中心としたチーム)に分かれて約508Kmを走り抜けます。

東軍は精鋭を集め、アンカーには金栗四三。

西軍は「マラソン校長」の異名で知られる愛知一中の元校長・日比野寛がアンカーを務めます。

そしてスタートした日本で初めての駅伝大会は、スタートから3日後、午前11時34分に東軍アンカー金栗が、ゴールである上野・不忍池に到着しました。

それから遅れること1時間24分、西軍が到着しました。

1919年、埼玉の小学校の運動会の審判を頼まれた金栗・沢田英一・野口源三郎は、帰りの汽車の中でアメリカ大陸横断駅伝がやりたいと、話していました。

アメリカ・サンフランシスコからニューヨークまで、アメリカ大陸の西から東を横断するという果てしない計画です。

金栗は計画実行のため、報知新聞の協力を得ました。

アメリカ大陸横断駅伝の予選を開催するために、各学校に呼びかけると、参加を表明したのは早稲田大学・慶應義塾大学・明治大学・東京高等師範学校の4校でした。

アメリカ横断の予選ですから、コースは平坦ではなく山登り下りなどがある「箱根-東京」間がコースとして選ばれました。

開催時期は、極寒か猛暑が良い、という金栗の考えから最も寒い2月に決定(後に交通量が少ないという理由で正月に移動します)。

1920年2月14日、4校が争う「四大校駅伝競走」がスタートしました。

これが箱根駅伝の始まりです。

アメリカ横断については、無謀であると報知新聞社から指摘され、実行されず、予選である箱根駅伝のみ現在まで続いています。

金栗足袋の開発

この頃、日本にはまだマラソンシューズという存在はありませんでした。

大河ドラマの通学のシーンでは草鞋を履いて走っていましたよね。

金栗はオリンピック予選会の時は黒い足袋を着用して走っていました。

しかし、25マイルの長距離ですから、足袋の底が割れ最後は裸足で走るというアクシデントに見舞われました。

このことから、ストックホルム大会の時には、底を2重3重にした特製の足袋で望んだのですが、ストックホルムの石畳で底が割れ、硬い舗装道路の衝撃を吸収できず、練習中、膝を痛めてしまうのでした。

帰国後、金栗は靴の重要性に気づき、ハリマヤの黒坂辛作とともに足袋の改良に取り組みます。

まず、足袋の底に自転車のタイヤを切って貼り付けた試作品が完成。その後、改良が加えられ専用のゴム底が付けられたのです。

さらに、足袋のこはぜ(留め具)を外し、靴のように紐で結ぶように改良を加えました。

こうして改良された足袋は「金栗足袋」と呼ばれ、1919年の下関から東京までの1200Kmマラソンに使用され、その耐久性を実証したのです。

第7回オリンピック アントワープ大会

1920年4月、オリンピック アントワープ大会の予選を勝ち抜いた金栗は、日本代表として参加することになりました。

金栗は30歳、選手としてのピークは過ぎていました。

2回目となるオリンピックでは、出場人数は15人。

長距離出場者は6人でした。

ストックホルムでの経験を活かし、出来うる準備や対策を行ったことで、前回よりは選手に負担の少ない環境が整えられていました。

その結果、男子テニスシングルで熊谷一弥が銀メダル、ダブルスで熊谷一弥と柏尾誠一郎が銀メダルを獲得しました。

金栗は最高5位まで順位を上げたのですが、途中36Km地点で足を痛め歩いてゴールに辿り着きました。

それでも2時間48分、16位でのゴールです。

大会終了後、代表選手たちはいくつかのグループに分かれてヨーロッパの視察をしつつ帰国の途につきました。

ドイツを視察した金栗は、スポーツをしている婦人たちをみて、日本の女子スポーツを発展させようと、女子スポーツに力を入れることになります。

女子スポーツに尽力、第8回オリンピックパリ大会出場

ドイツ視察を経て、将来母となる女子が心身を鍛える重要性を説き、女子スポーツを広めたいと考えた金栗は、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に就職しました。

日本ではまだまだ女性のスポーツ進出には消極的な時代でした。

そこで、日本の女性たちにもスポーツに参加してもらい、幼い子供の頃からスポーツができるような社会を目指したのです。

金栗は特にテニスに力を注ぎ、東京女子師範学校では女子連合協議会という、女子テニス大会を開催しました。

こうした努力が実り、1923年、関東女子体育連盟が設立されました。

地理の教師として勤めながら、各学校を回って学生らと走り、スポーツの重要性を説き続け、様々な協議会、運動会にも積極的に顔を出し、マラソン普及に尽力しました。

トレーニング方法も考案し、暑さ対策のため、真夏の房総海岸での耐熱練習や、心肺機能向上のため、富士山麓での高地トレーニングを取り入れるなど、練習方法にも工夫を加えました。

翌年1924年に開かれる第8回オリンピックパリ大会でも日本代表となった金栗は33歳。代表は後輩に譲り、自分は第一線から退こうと考えていました。

しかし、周囲から「伴走のつもりで」と言われ、仕方なく予選会に出場したのですが、教え子たちが次々と脱落、結局金栗が代表となったのです。

しかし、代表としてマラソンに出場した金栗は32.3Km付近で、意識を失い途中棄権となってしまいました。

パリ大会を最後に、金栗は第一線を退き、後進の育成とマラソンの普及にさらに力を入れるようになりました。

メダルを期待され、3度のオリンピックに出場しながら満足のいかない成績しか残せなかった金栗は、オリンピックの厳しさ、難しさを痛感しつつ、オリンピック人生に幕を閉じたのでした。

最後に

日本人初のオリンピック選手となった第5回ストックホルム大会で、経験不足と知識不足により満足な成果を上げられなかった金栗。

26歳というマラソン適齢期だったのに、中止となってしまったベルリン大会。

さらに次のアントワープでは30歳の金栗が出場したのですが、途中足を痛め16位。

33歳で参加したパリ大会では32.3Km地点で意識を失い途中棄権と、金栗のオリンピックは残念なものでした。

パリ大会を最後に、金栗は選手としての第一線を退きました。

オリンピックでこそ結果は振るいませんでしたが、日本における金栗の活躍は素晴らしいものでした。

数々の大会を開催し、マラソン人口を増やし、教職を続けながら各学校を回ってマラソン指導と、精力的に活動しました。

パリ大会終了後、熊本に戻った金栗は、さらにマラソン普及のために尽力します。


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