2019年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』は、明治から昭和にかけてのオリンピックドラマ。

そしてドラマの進行役は、落語家・古今亭志ん生さんです。

昭和35年頃、芸が円熟した70歳の志ん生をビートたけしさんが、弟子入りする前後の20代の頃を森山未來さんが演じています。

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昭和の落語名人・古今亭志ん生とは、どんな人生を送った落語家だったのでしょうか?

古今亭志ん生(五代目)

  • 本名:美濃部孝蔵
  • 誕生:1890年(明治23年) 6月5日
  • 没年:1973年(昭和48年) 9月21日(享年83歳)
  • 東京都神田生まれ
  • 学歴:神田から引っ越して台東区・下谷尋常小学校に入学、11歳の時退学。

家族

  • 父・美濃部戍行(みのべもりゆき)と母・志う(しう)の五男、末っ子。
  • 妻 りん
  • 子供 4人
    長女・美津子、次女・喜美子(三味線豊太郎)、長男・清(10代目金原亭馬生)、次男・強次(3代目古今亭志ん朝)
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生い立ち…落語家になるまで

美濃部家は徳川直参旗本でしたが、明治維新で身分も扶持もなくなり、父・戍行は食い詰めて棒丁(今の警察官)になります。

やんちゃだった孝蔵は、11歳で小学校を退学させられます。その後は職を点々としながら、酒やタバコは当たり前、博打や女遊びもする不良少年に。15歳でついに父に勘当されて家を追い出されます。その後も実家とは縁を切ったままで、親兄弟の死に目にも会わなかったそうです。

そして浅草の天狗連というプロアマ含む芸人集団に出入りするようになります。その後、明治43年20歳頃に、三遊亭小圓朝に弟子入りして三遊亭朝太と名乗ります。大正5~6年26・7歳頃に三遊亭圓菊と名乗って二つ目に昇進。大正7年に古今亭志ん生の門に移籍して金原亭馬太郎に改名します。2年後に金原亭馬きんとして、真打に昇進しました。

東京の落語会には、見習い、前座、二つ目、そして真打という階級があります。二つ目になると寄席の雑用がなくなって、紋付き羽織に袴を着ることができ、落語家として一人前になるのです。さらに実力をつけると真打に昇進して、寄席で大トリを任されます。

波乱の落語人生

志ん生は若い頃から天才肌で破天荒、周りとうまくやろうという心持ちがない人物でした。師匠も名前もコロコロと変わり、愛想がないので控室でも孤立していたそうです。お金を手に入れてもすぐに博打や酒に消えてしまい、二つ目に上がってもボロボロの着流しで高座に出ていたそう。服はボロだが噺は上手い…一部の落語ファンからそう評価されていました。

真打に上がった頃、周りの勧めで結婚。金はない、親とも疎遠という悪条件でしたが、りんという女性がお嫁にきてくれました。しかし結婚してからも酒や女遊びを続け、さらには実力者に楯突いて落語会から追い出され、無職になってしまいます。家賃は無しでいいからと引っ越した先は、ナメクジやコオロギだらけのボロ長屋。体が丈夫で辛抱強かったりんは、そんな夫でも耐え続け、4人の子供を産んで育て上げます。

そうこうしながらも芸を磨き続け、昭和14年(1939年)に5代目古今亭志ん生を襲名。実力が世間に認められ独演会ができるまでに出世しますが、すでに50歳手前、遅咲きの落語家でした。

その頃日本は太平洋戦争に突入し、落語会も芸風などを自粛。情痴、密通などを扱った演目は禁止となりました。志ん生は、慰問芸人として三遊亭圓生らと満州に渡ります。しかし到着2日後に終戦となって満州はソ連兵が占拠、命からがら2年後に帰国することができました。

戦後~円熟期

戦後復興期、ラジオブームとなり、志ん生は売れっ子芸人になります。ラジオではボロボロの着物でも関係ないので、噺の上手い志ん生は引っ張りだことなって収入も安定しました。次々と独演会が開催され、東京落語会を代表する存在となります。気分屋で酒好き、酔っ払ったまま高座に上がったり、気分次第で噺が変わったり…。破天荒ぶりすらも、愛される落語家でした。

しかし昭和36年に脳溢血で倒れ、意識不明の状態に。3ヶ月後に意識を取り戻しますが、後遺症が残って半身不随となります。その後高座に復帰しますが、破天荒ぶりは身を潜め、しっとりとした聞かせる落語に芸風が変わりました。聞かせる落語もまた、味があると評判でした。

東京落語の名人として名を馳せ、昭和32年(1957)から昭和38年(1963)、落語協会4代目会長に就任。1967年(昭和42年)、勲四等瑞宝章を受章。代表作は「黄金餅(こがねもち)」「富久(とみきゅう)」「火焔太鼓(かえんだいこ)」と言われています。そして1968年の高座が事実上の引退となりました。その後、1973年(昭和48年)9月21日に亡くなります。享年83でした。

ドラマでの志ん生

実際の志ん生は修行時代、所属門下を点々としていました。しかし志ん生自身は「自分の師匠は橘屋圓喬だった」と言っていたそうです。ドラマでは志ん生の言ったように、橘屋圓喬が師匠だとして描かれていますね。また第9回で、「食うことなんか後回しにして、芸の苦労をしなきゃいけねえ」と師匠に教わったとしていますが、現実には酒や博打で金を使い過ぎ、そして型破りな性格のせいで収入が安定しなかったという面もあったようです。

ドラマで志ん生が生きる時代は昭和35年ですので、ちょうど脳溢血で倒れる前年、70歳の頃です。昭和の東京オリンピックは39年ですので、いだてん後半の東京オリンピック編では、志ん生が脳溢血で倒れる場面、そして芸風が変わった後も描かれるかも知れませんね。

最後に

昭和の落語名人・古今亭志ん生は、師匠にも客にも媚びない、それでいて芸は一流という破天荒な落語家。

戦前までの貧乏話や、満州からの引き上げエピソードなど、波乱万丈な生涯でした。

そして戦後、売れっ子になっても、酒を飲んで高座で居眠りなど、気分屋で芸の出来不出来の差が大きい落語家でした。

今日はどんなことをやらかすのかな?というところも、ファンは楽しみにしていたのかもしれませんね。