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「麒麟がくる」のクライマックス!本能寺の変と明智光秀と織田信長と配下武将の謎について。

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2020年1月からの大河ドラマ、明智光秀役の長谷川博己さん主演の「麒麟がくる」では、本能寺の変が肝、クライマックスにあたりますよね。

本能寺の変、誰でも一度は聞いたことがある大変有名な事件です。

明智光秀が主君である織田信長に反旗を翻し謀反を起こしました。

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しかしこの事件、実は謎がかなり多い事件なのです。

有名な事件でたくさんの歴史家が研究していても解けない謎を持つ本能寺の変。

史実を振り返るとともに、本能寺の変にある様々な謎、諸説をご紹介いたします。

目次

本能寺の変とは

そもそも、本能寺の変とは一体どのような事件だったのでしょうか。

事件は天正10年6月2日(1582年6月21日)の早朝に起こりました。

京都の本能寺に滞在中だった織田信長は、家臣である明智光秀の襲撃を受けたのです。

本能寺を包囲されたと悟った信長は、館に火を放ち自害。

京都二条城に滞在していた嫡男の信忠も明智勢に襲撃され、自刃しました。

こうして織田政権は崩壊し、明智光秀が天下人となりましたが、織田配下だった羽柴秀吉が中国大返しにより畿内に戻り、山崎の戦いにて明智光秀を討ち取ったため、光秀の天下は僅か11日で終わりました。

この事件をきっかけに戦国乱世が収束に向かったため、「戦国時代における最後の下克上」と言われています。

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本能寺の変が起こった背景

天正10年(1582年)、甲州征伐により武田を滅亡させた信長。

これにより信長は、家臣の領地を含め総石高は700万超えとなりました。

天下統一まであと僅か。

仕上げとして、越後の上杉には柴田勝家を向かわせ、関東の後北条には滝川一益、そして中国の毛利には羽柴秀吉を向かわせそれぞれ戦わせていました。

しかし、秀吉は攻めにくい備中高松城攻略に手こずっていました。

信長は秀吉からの救援要請を受け入れ、自身が中国に乗り込み毛利を一気に攻め落とし、九州まで平定してしまおうと決心し、先陣として明智光秀の軍勢を派遣することにしたのです。

光秀は居城である坂本城に戻り、出陣の準備をしなくてはならなくなりました。

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本能寺の変、光秀の動き

1582年(天正10年)5月14日、織田信長は、武田氏との戦いで功績のあった徳川家康を安土城に招待していました。

信長はその饗応役を明智光秀に任せていました。

15日から3日間、家康や穴山梅雪らの一行をもてなすはずだったのですが、17日、備中高松城を攻囲していた羽柴秀吉から、信長に救援要請が入りました。

信長は、これを好機として自ら出陣し、中国勢を一掃し九州平定をも成し遂げようとしたのです。

そこで光秀に先陣として出陣するようにと命令を下したのでした。

では、本能寺の変までの光秀と信長の動きをまとめてみましょう。

17日、坂本城に戻った光秀は、出陣の準備を開始。

19日、信長は総見寺にて招待した客らに幸若太夫の舞で接待。

20日、信長は饗応役として新たに丹羽長秀・堀秀政・長谷川秀一・菅屋長頼を任命。

21日、家康は京・大阪・堺を見物するために大阪に出立。この日、信長の嫡男・信忠も上洛し妙覚寺に入ります。

26日、光秀、坂本城を出立し、丹波亀山城に移動。

27日、愛宕山にある愛宕権現に参籠。

28日、亀山城に帰還。

29日、弓鉄砲などの武器を運ぶ輜重隊を西国に先発させました。

同日、信長は小姓衆のみを連れて、安土城から京の本能寺に入りました。

6月1日、信長は公卿・僧侶らを招いて本能寺で茶会を開催。

同日午後4時頃、光秀は1万3千人の手勢を率いて出陣しました。

午後6時頃、柴野に軍勢を勢ぞろいさせると、光秀は軍議を開き、ここで初めて信長を討つと重臣たちに告げたのです。

6月2日未明、桂川に到達した光秀の軍勢は戦闘準備を始めました。

この時、明智軍の中には信長ではなく家康を討つのだと思っていた武士が多くいたそうです。

午前4時、本能寺を完全に包囲、明智勢は鬨の声を上げて鉄砲を撃ちかけました。

当初、周囲のざわめきを下々の喧嘩と思っていた信長でしたが、すぐに謀反と知り、少ない人数で一団となって応戦していました。

しかし、多勢に無勢、信長は女房衆に逃げるよう指示を出し、自身は殿中の奥深くに篭もり切腹して果てました。

この時、午前8時。4時間ほどで討ち入りは終わったのです。

本能寺から1.2Km離れた妙覚寺に滞在していた信忠は、光秀の謀反を聞くと、すぐに救援に向かおうとするのですが、既に大勢は決まったと、村井親子に止められ、隣の二条御新造(二条城)に移りました。

二条城は作りが堅牢で、立て篭るのにちょうど良かったのです。

信忠は、二条城の主・若宮和仁王(のちの後陽成天皇)らを脱出させた後、雑兵の手にかかって死ぬよりは自刃かと議論している間に明智勢に包囲され、脱出不可能となってしまいました。

明智勢1万に対し信忠の手勢は500名、さらに在京の信長の馬廻衆も加わり1500名。

多勢に無勢であるものの、獅子奮迅の戦いで1時間以上も戦闘は続きました。

しかし、ついに戦えるものも少なくなり信忠は自刃。

信長同様自身の遺体を隠すよう指示していたため、家臣らの働きにより遺体は見事に隠されました。

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本能寺の変、その後(信長配下の動き)

信長の死はすぐに各地に知らされました。

羽柴秀吉

一番早く対応できたのは中国攻めをしていた羽柴秀吉でした。

秀吉は、6月3日未明にこの知らせを聞くと、すぐさま毛利と講和を結び上洛を試みます。

備中高松城の陣を引き払い中国大返しを開始したのが6月6日のことです。6月4日午後とする説もありますが、6日が有力とされています。

秀吉は2日後には本拠地姫路城に到着、一日の休養の後、城内に備蓄していた金銭・米穀を配下の将兵に分配。

光秀討伐に対する決死の姿勢を示すとともに、勝てば恩賞があると将兵に知らしめたのです。

9日朝、姫路を出立した秀吉は、明智方に与する可能性がある菅達長の洲本城を攻撃し、その日のうちに落城させました。

10日朝、秀吉軍は明石を出発、兵庫まで進軍。

11日朝、出発した秀吉軍は夕刻に尼崎に到着。大阪在陣中の丹羽長秀・神戸信孝・池田恒興らに着陣を知らせました。

一方の光秀は、本能寺の変後、今日の治安維持と新体制づくりに奔走していました。

近江方面の攻略が一段落すると、9日に安土から京に入り、10日には下鳥羽に陣を敷き、京の勝竜寺城にも兵を入れました。

12日、逆賊明智を討つ義戦、と主張する秀吉のもとには諸将が集い始めました。

この時、大阪の織田信孝や丹羽長秀と合流せずに冨田に着陣した秀吉には、主君の弔い合戦にいち早く駆けつけたのは秀吉軍であると知らしめる狙いがあったという見解があります。

13日、とうとう山﨑にて決戦が始まりました。

光秀討伐の義戦として集った兵たちは光秀軍を圧倒し、光秀は勝竜寺城に逃げ込みました。しかしほどなくして城は包囲され、光秀は京方面に脱出しました。

居城坂本城を目指して逃亡したのですが、日付も変わる頃、土民に襲われて光秀は死亡しました。

光秀の死亡を秀吉が確認できたのは近江に進軍し、三井寺に滞陣中のことでした。

徳川家康

信長の勧めにより京・大阪を遊覧中だった徳川家康は、信長が討たれたとの知らせを受けて動揺し信長の後を追い自害しようとするのですが、家臣らの説得を受け、すぐさま自領三河への脱出を開始しました。

この時の家康は僅かな供廻りしか連れておらず、明智勢に見つかればかなり危険な状況でした。

ここで家康が行ったのが、神君伊賀越えです。

三河に帰還後、体制を整えた家康は光秀討伐に出るのですが、光秀討伐戦の山崎の戦いには間に合いませんでした。

柴田勝家

信長の父の代から織田家の家臣であった柴田勝家が悲報を受け取ったのは、魚津城の上杉氏と戦っていた時でした。

すぐさま居城である北の庄城に帰還し、光秀討伐に討って出ようとするのですが討伐戦には間に合いませんでした。

丹羽長秀

四国征伐の準備で住吉に駐軍していた丹羽長秀が本能寺の変の知らせを受け取った時、長秀は家康接待の任務で軍とは別行動を取っていました。

そのため、光秀を討つには最も有利な位置にいながらせっかくの大軍を動かすことができず、信長の訃報を聞いた雑兵が混乱し、四国派遣軍が四散してしまったため、中国から戻ってくる羽柴秀吉軍を待つことになりました。

秀吉と合流後は山崎の戦いに参加しています。

滝川一益

上州の厩橋城で北条を相手に戦っていた滝川一益が信長の悲報を知ったのは変の5日後のことでした。

信長の弔い合戦に参加できなかったのはもちろん、後継者を決める清洲会議にも参加することができませんでした。

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本能寺の変の謎・なぜ光秀は信長を裏切ったのか(俗説いろいろ)

本能寺の変には解明されていない謎が多く、たくさんの歴史学者の方々が研究していても明確な定説は発見されていません。

信長が最も信頼していたと言われていた光秀がなぜ謀反を起こしたのでしょうか?

家臣が必死に隠したとは言え、信長や信忠の遺体が見つからないのはなぜなのでしょうか?

明智光秀が織田信長を討とうと決意した理由にはいくつかに分類されます。

大きく分けて2つ。

  1. 明智光秀単独犯説
  2. 主犯存在説(黒幕存在説)

単独犯説には怨恨説・野望説・名分存在説他多数。

主犯存在説には、秀吉が実行犯だった、黒幕だった、他の武将または朝廷が黒幕だった、共謀していたなどなど、ウィキペディアにある説を見ただけでも57もの諸説があります。

さらに、光秀無罪説など、たくさんの人々の想像力によりさらに多くの説も存在します。

ここでは有名な3つの説をご紹介します。

光秀怨恨説

これまで多く語られてきたのがこの怨恨説です。

多くのドラマ映画などでも光秀怨恨説を主軸に本能寺の変が描かれていたように思います。

光秀は多くの恨みつらみを信長に抱いていたといいますが、具体的には何があったのでしょうか?

  1. 丹波八上城事件
    光秀が交渉し投降させた敵将を信長が殺したため、人質となっていた光秀の母が殺害されました。
  2. 斎藤利三事件
    稲葉一鉄の家臣だった斎藤利三を召抱えた光秀は、旧主に返せと命じた信長に従わなかったため、危うく手打ちになるところでした。
  3. 恵林寺焼亡事件
    武田に与した恵林寺を焼き払えと命じた信長を諌めたため逆鱗に触れてしまいました。
  4. 甲州征伐後、光秀が「我らが苦労した甲斐があった」と発言したことで、「おのれは何の功があったか」と信長が激怒し光秀を殴打、衆人の前で侮辱されました。
  5. 饗応役の解任
    家康饗応役を任されましたが、光秀の手際の悪さから解任されたと言います。
  6. 旧領丹波・近江の召上
    まだ敵地であった出雲・石見への国替えを命じられ光秀主従はひどく落胆したといいます。
  7. 四国政策の変更
    光秀の調停により信長から四国の所領を安堵されていた長宗我部元親でしたが、敵対していた三好が秀吉と連携を持つようになり所領の一部を三好に返還するように通告が出されました。
    元親はそれに応じず、とうとう四国征伐が決定されてしまい、調停役の光秀は面目を潰されてしまいました。

光秀野望説

光秀には昔から野心があり、信長からの辛い仕打ちも野望があったからこそ耐えられていたのではないかという説があります。

信長100の手勢に対し光秀は13000、信長を倒せば天下が転がり込んでくる、と謀反を起こしたと言われています。

しかし、この説は根拠となるものが存在しないため、疑問視されています。

この説から派生した突発説・偶発説もあります。

黒幕存在説

光秀が主犯ではなく裏に黒幕がいて光秀以外の人物が主犯であるという説です。

信長が死して一番特をした人物として秀吉の名が挙げられています。

他にも斎藤利三・近江土豪連合・長宗我部元親・濃姫・光秀の妻・朝廷・毛利輝元・徳川家康・堺商人・ローマ教皇庁・高野山などなど、数々の人物の名が上がっています。

さらに、黒幕が複数いたとする説もあります。

この他にも信長の暴挙に憤った光秀が信長に天下を取らせては危険と感じ謀反を起こしたという名分存在説、信長自滅説など、数え切れない程の説が存在しています。

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本能寺の変の謎・信長の遺体はどこに

謎が多い本能寺の変ですが、本能寺の焼け跡から信長の遺体が発見されていないという謎もあります。

本能寺の変後、光秀は信長の遺体を全力で探しました。

戦国時代、敵の首級を取り証拠を示すことがとても大切なことでした。

しかし、どんなに探しても信長の遺体は発見できません。

そのため、信長の遺体に関してたくさんの説が語られるようになりました。

遺体は粉々になった説

当時、本能寺にはたくさんの火薬が貯蔵されていました。

本能寺に火がまわり火薬に引火して爆発が起こり、遺体が粉々になったと言われています。

しかし、フロイスや小瀬甫庵が残した記述には爆発が起こったとは残されていませんでした。

阿弥陀寺の住職・清玉上人が遺骨を持ち出し供養した説

光秀が謀反を起こし本能寺に攻め入ったと聞いた清玉上人は、僧徒20人余りを率いて本能寺に駆けつけました。

光秀の目を掻い潜り寺内に侵入すると、信長は既に自刃した後。

家臣らが信長の遺体を焼いていたため、清玉上人が阿弥陀寺に持ち帰り供養しました。

阿弥陀寺には信長を始め、嫡男の信忠、森蘭丸など本能寺の変で亡くなった人々のお墓が存在し、信長の命日(6月2日)には「信長忌」として追善供養が行われています。

本因坊算砂が持ち出し、西山本門寺に埋めた説

本能寺の変の前夜、本能寺で囲碁の対局が行われていました。

囲碁好きの信長に仕えていた日蓮宗の僧侶・日海(初代本因坊算砂)と同じく日蓮宗僧侶の利玄は信長の御前で対局しました。

寺伝によると、日海の指示を受けた原宗安は信長の首を静岡にある西山本門寺に持ち帰り、本堂裏手に首を埋めたと伝わっています。

その時に植えた柊は樹齢450~500年とされており、本能寺の変が起こった時期と一致しています。

信長生存説

明智勢が必死に探しても見つからなかった信長の遺体。

そのため、信長はまだ生きているのではないかと噂が広がりました。

当時、本能寺には地下通路があったと言われており、信長はそこから脱出したのではと言われているのです。

この時、信長の側仕えとして本能寺に同行していた黒人家臣の弥助が本能寺の変後、南蛮寺に送られ一命を取り留めました。

弥助の消息はそれ以降不明なので、信長が南蛮寺に潜伏し生き延びたという説も存在します。

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最後に

本能寺の変とは、信長の家臣の明智光秀が主君である織田信長を討ち取った事件です。

その後、光秀は信長配下の羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ亡くなりました。

光秀が信長に謀反を起こした理由は諸説有り、定説はまだありません。

信長の遺体に関する謎もあり、今も歴史ファンの想像力を掻き立てています。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀が主役となっています。

これまでは討たれる信長にスポットを当てたものが多く、光秀は悪役扱いをされていました。

しかし、今回の大河ではこれまでのイメージを覆す光秀が見られるといいます。

謎が多く残る本能寺の変を、新しい角度から描いてくれる「麒麟がくる」。

一歴史ファンとして、どんな本能寺の変を見せてくれるのか、とても楽しみです。




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