「おんな城主 直虎」では小林薫さん演じる南渓和尚。

ひょうひょうとされていますが、直虎の精神的支え、井伊家の知恵袋として、なくてはならない存在ですよね。

25d9bba087bcd6464437bf0ddf774831_s_061817_044239_AM

直虎の大叔父に当たる人です。一体どんな人物だったのでしょうか?

南渓瑞聞(なんけいずいもん)とは

井伊家20代当主・井伊直平には嫡男・21代直宗、娘・佐名、南渓和尚、直満、直義、直元という子供たちがいました。

南渓和尚は、直平の次男と言われています。家系図を見てみると、たくさん兄弟がいましたが、仏門に入ったのは南渓和尚ただひとりです。

戦国の世では、長男以外の男子が仏門に入ることは決して珍しいことではありませんでした。兄弟間の相続争いを回避させるため、庶子家(分家)による勢力の減少を防ぐため。また、「一人出家すれば九族天に生まる」「一子出家すれば七世の父母皆得脱す」という信仰があったためです。

幼い頃から学問にも武芸にも秀でていた南渓和尚は、父・直平から「武士として育てたかった」と言われていました。

この当時のお寺は、合戦や領地経営に役立つ高度な学問を学べる場所であると同時に、武芸の修練場でした。文武に秀でた次男を最高学府であるお寺に入れることで、後に軍師的な役割を期待したのかもしれません。

今川の軍師・雪斎のように、僧が大名の戦術指南をすることは、多々あったことなのです。

南渓和尚は、井伊家の菩提寺である龍潭寺の默宗瑞淵(もくじゅうずいえん)の弟子になり、默宗瑞淵没後、龍潭寺二世となります。

スポンサーリンク

龍潭寺とは

歴史は古く、733年、行基菩薩によって開創されたと言われています。井伊家の初代、共保から続く、祖霊を祀る井伊家の菩提寺です。

1532年、20代直平が默宗瑞淵和尚を開山として迎え、龍泰寺を建立しました。

1560年、22代直盛が戦死し、法名により龍泰寺を龍潭寺に改めました。「龍潭」とは「龍が住む池」という意味があり、直盛は死して龍となり井伊家を護る、という意味が込められているそうです。

井伊家での南渓和尚の活躍

さて、僧としても優秀で、知略に溢れているこの南渓和尚。井伊家でどのような役割を果たしたのでしょうか。

南渓和尚の功績の1つとしてまず挙げられるのは、幼い直親を信州に逃がしたことでしょう。

井伊家22代当主・直盛には男子がおらず、娘のおとわしかいませんでした。そこで自身の従兄弟にあたる、井伊直満の嫡男・亀之丞(後の直親)を婿養子とし、後継とすることにしました。

しかし、その政策に不満を持つ筆頭家老・小野政直の諫言により直満は今川氏に殺められ、嫡男・亀之丞も命を狙われてしまいます。

それを救ったのが、南渓和尚の知略でした。

亀之丞は、井伊直満の家臣・今村藤七郎正実に連れられ、渋川・東光院に逃れました。さらにそこも危なくなってきて、信州伊那郡市田村にある高森・松源寺に逃れました。現地では国衆の松岡氏に保護され、10年間市田郷で過ごすことになりました。これは、全て南渓和尚の指示と言われています。

また、おとわが出家する時に、尼ではなく次郎法師として出家させたことも功績ではないでしょうか。

亀之丞が信州に逃れた後、次はおとわに災難が降りかかりました。今川からの指示で、小野政直の嫡男・鶴丸との結婚を余儀なくされたのです。しかし、おとわは、亀之丞を思いそれを拒否。出家することにより、今川からの許しを得ました。

それに、尽力したのも南渓和尚です。

今川の軍師・雪齋に働きかけ、今川に人質に出された妹・佐名姫に今川義元の母・寿桂尼への取りなしを頼んでいます。

出家により、お咎めなしになったおとわでしたが、通常、女性が出家する場合には尼僧になりますが、還俗が許されません。しかし、井伊家に残るのはおとわのみ。

そこで、おとわに「次郎」という名を与えます。「次郎」とは井伊家を継ぐ者が持つ名前です。

おとわを「次郎法師」とし、還俗が可能な男性僧侶の名を名付けたのです。

さらに、次郎法師を還俗させ、城主・直虎を誕生させたことも大きな功績でしょう。

松源寺に逃れた亀之丞はおよそ10年後に井伊谷に戻り、22代・直盛の養子となりました。

桶狭間の戦いで主家の今川義元が織田信長に敗れ、この戦いで22代・直盛も討死し、井伊家の家督は23代・直親に引き継がれました。

しかし、その直親も小野政直の後を継いだ小野政次の諫言により今川の重臣の手に掛かり命を落としてしまいます。

直親には嫡男・虎松がいましたが、虎松も命を狙われ、今川家の家臣で井伊家の目付である新野左馬助の助命嘆願により新野屋敷で暮らすことになりました。

直親の死後、井伊家の当主を務めていた20代直平も間もなく亡くなり、井伊家を支える重臣たちも次々と亡くなり、井伊家を継ぐ者はまだ幼い虎松のみになってしまいました。

そこで南渓和尚は出家した次郎法師を還俗させ井伊直虎とし、当主としたのです。

直虎が当主となった後も様々な問題が発生しますが、その時々に南渓和尚は井伊家の参謀として活躍しています。

1568年、甲斐の武田軍が駿河の今川に侵攻した際、小野政次は、虎松の命を奪い、井伊谷を横領するよう、今川氏真の命令を受けました。これを知った南渓和尚は虎松を柿本城へ移し、更に三河の鳳来寺に逃がしました。

1574年、直親の13回忌のため、井伊谷に帰ってきた虎松を徳川に仕官させるために、南渓和尚と直虎、祐椿尼(直虎の母)、しの(虎松の母)は知略を巡らせ、虎松は徳川に士官が叶ったのです。

さらに、1584年、小牧・長久手の戦いでは、元服し24代となった井伊直政が戦に参戦する際に、軍扇として龍潭寺所蔵の「日月松の扇」を与え、弟子の中から弓の名人、傑山宗俊と長刀の名人、昊天宗建を付け、直政を支えていたのです。

最後に

20代・直平の子として生まれ、24代・直政まで支え続けた南渓瑞聞。

井伊家最悪の時代の当主たちを知略でもって支え続けました。後継が次々と不幸に見舞われ、残る者が女性の直虎しかいなかった時、南渓和尚はどんな気持ちだったのでしょうか。直平の子であれば、南渓和尚が継ぐこともできたはずです。

しかし、南渓和尚には養子説があります。そのため、能力がどんなにあろうとも、自分が当主になることはせず、影から支える道を選んだのでしょう。

一時的ではありますが、途絶えた井伊家を再興させ、徳川家で大老の家にまでなるには、24代・直政の努力と様々な困難に負けず、繋ぎ続けてきた南渓和尚の功績が大きいのではないでしょうか。