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おんな城主 直虎。井伊谷三人衆じゃない井伊谷七人衆について。

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「井伊谷三人衆」という人々をご存知でしょうか?

1568年、小野政次が井伊谷城を占拠し、徳川家康の力を借りて井伊谷城を取り戻した井伊家の被官。東三河・浜名湖沿岸部を領する領主。菅沼氏・近藤氏・鈴木氏の3人のことです。

小野政次を追いやり、井伊谷奪還の立役者です。「井伊谷三人衆」は有名ですが、実は「井伊谷七人衆」といわれる人々もいるのです。

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さて、「井伊谷七人衆」とは、一体どんな人物たちなのでしょうか?

井伊谷三人衆については、こちらの記事をご覧下さい。

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目次

菅沼家譜による井伊家の重臣

「おんな城主 直虎」の時代考証を担当している小和田哲男氏の「引佐町史」によると、井伊家の家臣団の構造は、宗主伊井氏がいて、筆頭家老が家臣を取りまとめ、その下に井伊谷被官衆・井伊谷親類衆があるとしています。井伊谷親類衆は、赤佐・奥山・石野・田中・井平・谷津・石岡・田沢・松田・上野・岡・中野氏と言われています。

井伊谷被官衆とは、都田上下給人衆・瀬戸衆などがあり、都田・瀬戸・祝田といった地域武士集団のこと、とされています。

江戸幕府の旗本である、三河新城の菅沼摂津守定実は、「菅沼家譜」を残しており、そこに井伊直虎を支えた重臣として7名を記しています。

  • 小野氏 (筆頭家老)
  • 松下氏 (徳川家家臣)
  • 松井氏 (二俣城主)
  • 中野氏 (井伊家の庶子家)
  • 菅沼氏 (都田城主)
  • 近藤氏 (宇利城主)
  • 鈴木氏 (柿本城主)

この7人を「井伊谷七人衆」として、定義しているようです。

筆頭家老 小野氏

筆頭家老 小野氏とは、小野但馬守政次のことです。

小野篁を祖先とする、京の名門一族に繋がる家系といわれています。戦国時代、井伊家の家老職を務めています。今川に近い立場をとっており、井伊家の重臣でありながら同じ井伊家の反今川派からは反発を受けています。

「おんな城主 直虎」では、高橋一生さんが演じており、直虎や直親の幼馴染であり、今川の支配下で難しい立ち位置の井伊家を守るため、あえて汚れ役を引き受けているようにも見受けられます。

皮肉たっぷりでしたが、直虎に策を授けたりする場面も見られ、井伊家の頭脳としての働きも見られます。

史実では、23代井伊直親を讒言により死に追いやり、今川氏真に働きかけ直虎に徳政令を出すように命令し、直虎が地頭職を罷免された後は、井伊谷を占領しました。

まもなく、徳川家康の力を借りた、井伊谷三人衆(菅沼忠久・鈴木重時・近藤康用)によって井伊谷城は奪還され、戦うことなく近隣に逃げていた政次は捕縛されました。

その後、政次は2人の子と共に蟹淵の河原で獄門に処せられました。

徳川家家臣 松下氏

松下氏とは、井伊虎松の実母しのが再嫁した徳川方の武将、松下清景のことです。

「おんな城主 直虎」では、謎の山伏として登場している松下常慶の兄と言われています。

この松下常慶は、徳川家康の側近で各地の情勢を探る役割を果たしていました。

1574年、虎松の母・しのと再婚し虎松を養子に迎え、松下虎松を嫡男とします。

虎松が徳川家康に見出され、井伊家再興が許されると、後を継ぐ者がいなくなってしまい、中野直之の次男・一定を養子に迎えこの松下一定が松下家を継ぐことになります。

1597年、清景は城下の屋敷で死去。松下一定は井伊直政に仕え、直政が初代藩主を務める彦根藩の家老職を務めています。

二俣城主 松井氏

「井伊谷七人衆」と呼ばれる松井氏は、二俣城の城主を務めていた人物とされていますが、諸説があり、はっきりとはわかっていません。歴代二俣城主を見てみましょう。

1514年、二俣城主だった二俣氏に代わり松井信薫が二俣城主になりました。信薫が病死すると弟・宗信が跡を継ぎました。

この宗信は、1560年の桶狭間の戦いで討ち死。同族の松井宗親(信薫の子)が城主になりましたが、徳川に寝返った飯尾連龍と姻戚関係にあったため、今川氏真に謀殺されてしまいました。宗信の嫡男・宗恒はその後二俣城主になりました。

二俣には松井氏が土着し、その中の誰かが井伊谷七人衆に名を連ねていたと言われています。

さて、1つ気になる文献があります。そこには松井郷八郎宗信は、遠近国二俣の城主であったが、老年は出家し名を「方久」とし、引佐郡瀬戸村で余生を過ごした、とあります。

聞き覚えのある名前ですよね。そう、「おんな城主 直虎」ではムロツヨシさんが演じている瀬戸方久です。

宗信は桶狭間で亡くなっていますから、実際は別人なのかもしれませんが、たくさんある説の1つとしてはとても興味深い説です。

井伊谷七人衆には、別の人物たちで構成されたものもあり、そこには瀬戸方久の名が記されているものもあります。

井伊谷親類衆 中野氏

中野直由の嫡男、中野直之のことです。「おんな城主 直虎」では、矢本悠馬さんが演じています。

中野家は井伊家の庶子家で、庶子家の中では一番遅く分家したので血が濃く、井伊家であることに誇りを持っている一族です。

桶狭間の戦いで、22代当主、井伊直盛が討ち死した際、井伊直親の後見、井伊谷城の実権を任された井伊直由の嫡男として生まれ、井伊家の信頼の厚い一族でした。父亡き後は、跡を継ぎました。

直虎の側近としてよく支え、23代当主、直親の遺児・虎松が徳川家康に謁見する際に付き添ったと言われています。

虎松が24代当主、井伊直政と名を改めた後も直政に仕え、井伊家の家老として末代まで井伊家を支えます。

井伊谷被官衆 菅沼氏

遠江引佐郡郡田を地盤に持ち、伊井氏の被官になったとされている菅沼忠久です。「おんな城主 直虎」では、阪田マサノブさんが演じています。

元は今川氏に仕えていましたが、徳川家家臣で一族の菅沼定盈に説得され、桶狭間の戦い後、没落が止まらない今川氏から離反し徳川氏に乗り換えます。

菅沼忠久の妻は鈴木重時の娘で、菅沼と鈴木は義理の親子になります。徳川からの誘いに義理の父である鈴木重時も誘い、さらに、近藤康用も誘って徳川方につきました。この3人で井伊谷三人衆と呼ばれるようになります。

徳川家康が遠江攻めをした際には道案内をし、貢献しています。

後に井伊直政に仕えていますが、忠久は1582年に死去。嫡男忠道が跡を継ぎ、小牧・長久手の戦いでは勇猛果敢に戦い、名を残しています。

忠道が1603年に亡くなると、勝利が跡を継ぎ、大坂の陣で活躍します。

しかし、井伊家からは離れ、徳川家の旗本として続いていくことになります。

井伊谷被官衆 近藤氏

徳川家康の父・松平清康が三河国宇利城を攻めた時、近藤康用の父・近藤忠用は松平に仕えており、戦に参戦、功績により宇利城主となりました。近藤康用は、「おんな城主 直虎」では橋本じゅんさんが演じています。

その後、松平家が勢力を失うと今川家に仕えるようになり、忠用と康用は今川義元の家臣になりましたが、221貫文で井伊家の与力として被官していました。

徳川家康が遠江侵攻を目論んだ時、家臣の菅沼定盈に一族である井伊谷の菅沼忠久を徳川方に寝返るように説得させ、菅沼忠久はそれを了承し、義父の鈴木重時を誘い、近藤康用にも誘いをかけます。近藤康用もそれを受け、3人は徳川家康の配下になります。

家康が遠江攻めを行った時、康用は歩行困難だったため、嫡男・秀用が代わりに徳川軍の先方を務めました。

1588年、康用は井伊谷で死去。龍潭寺に葬られています。

秀用はその後、徳川家に仕え、活躍しますが、井伊直政が徳川家臣になると、直政の配下につくように命じられます。

しかし、直政とは反りが合わず、出奔。しばらく放浪することになります。直政の死後、徳川秀忠に仕え、1619年、井伊谷藩初代藩主となります。

井伊谷被官衆 鈴木氏

鈴木重時の妻は奥山朝利の娘で、重時の妹は井伊直親の母です。また、重時の娘は菅沼忠久の妻になっています。鈴木重時は、「おんな城主 直虎」では菅原大吉さんが演じています。

比較的、井伊家に近い存在です。重時は、柿本城を築き本拠地とします。父・重勝の子孫を山吉田鈴木家と呼び、重時は2代目にあたります。

父・重勝の代から今川家に仕えていましたが、重時の時代になると井伊家の被官となりました。

1568年、娘婿の菅沼忠久から徳川方へ寝返るよう説得され、徳川家康に仕えるようになりました。家康の遠江侵攻では先方を務め、武功を挙げています。

同年、堀江城攻めの折、城兵に狙撃され討ち死にしてしまいました。

家督は、当時12歳とも14歳とも言われている嫡男・重好が継ぎました。

その後、井伊直政の配下につき、小牧長久手の戦いで活躍し名を挙げました。

重好は、直政の居城となる彦根城の普請を勤めました。直政の死後、彦根藩の家老につきましたが、彦根藩家臣から金銀・米の流用などの不正を行っているとの告発があり、隠居させられた後、所領の上野国に戻されました。

閉居生活を余儀なくされていましたが、1618年、徳川秀忠により水戸徳川家の家老になりました。

最後に

井伊直虎を支えた7人、それが「井伊谷七人衆」です。

今川や松平に囲まれ、武田の脅威にさらされ、誠に舵取りの難しかった、井伊家にとって最悪の時代に力を合わせて乗り切ろうとしていた7人のはずでした。

ところが、筆頭家老小野氏は、親子共々讒言によって井伊直満・直親親子を葬り、果ては今川の命令により井伊谷城を横領。井伊谷三人衆により井伊谷城を奪還され捕縛。2人の子供と共に処刑されてしまいました。

中野氏・松下氏・松井氏の3人は、井伊家の虎松を守りぬくことに心血を注ぎ、一度は途絶えた井伊家を見事、再興に導きました。井伊家に後後まで仕え、井伊家の重臣として活躍を続けます。

井伊谷被官衆、有名な「井伊谷三人衆」は、小野に奪われた井伊谷の土地を取り戻し、井伊谷の地を領するようになります。徳川に士官が叶った井伊直政の家臣になりますが、後に3家とも井伊家を去ることになってしまいます。

7人で力を合わせ、井伊家を盛り立てるはずだったのに、どうしてこうなってしまったのでしょうか?

それぞれの信念に従い、それぞれが井伊家を、自身の家を守ろうとした結果がこうだったのでしょうか。

結果、井伊家は守られ、徳川の大老家として繁栄します。

支え方、行くすえに違いはあれど、確かに井伊谷を守り、井伊家を繁栄に導いた7人は、井伊家を支えた「井伊谷七人衆」として見事な働きをしたと言えるのでしょう。

大河ドラマで、阿部サダヲさん演じる徳川家康が、印象深い言葉を語っていました。

「何故三河だけではいかんのかのう?」

全くその通り。各々が各々の地で満足していれば、戦など起こらないのに。他家に干渉しなければ安心して領土を豊かにできるのに。

皆が家康と同じ考えならば、戦国の世は来なかったわけですが、現代人の私には計り知れない戦国時代の厳しさ、難しさを思うと、切なくなります。

井伊を支えるという志を同じくしながら、1人は処刑されてしまったという事実が、残念でなりません。


井伊谷三人衆については、こちらの記事をご覧下さい。

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