新野左馬助の三女・桜が嫁ぐことになった今川家の重臣・庵原助右衛門朝昌。

「おんな城主 直虎」では山田裕貴さんが演じています。忠義の武士で直虎や南渓和尚からも好ましい人物と評価されています。

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後に子孫が井伊家の彦根藩の次席家老になるのです。この庵原朝昌という人物、一体どんな人物なのでしょうか?

庵原氏とは

庵原氏には、庵原国造を祖とする庵原氏と藤原秀郷流・庵原氏、坂上田村麻呂流・庵原氏と藤原南家流・庵原氏とあります。

庵原朝昌や今川家の名軍師・太原雪斎は藤原秀郷流・庵原氏とされています。藤原秀郷の子孫・蒲生惟俊(近江蒲生氏の祖)の子・庵原俊忠が駿河国庵原に住み庵原氏を称しました。

今川家に最後まで忠誠を尽くした今川家の重臣・庵原将監や庵原城主・庵原忠胤もこの家の出身とされています。

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庵原助右衛門朝昌とは

「おんな城主 直虎」では山田裕貴さん演じる朝昌。今川家からの要請で新野左馬助の三女・桜が嫁ぐことになりました。人質としての意味合いが濃かったこの婚姻だったので、桜の行く末を心配した直虎が南渓和尚を通じて秘密裏に朝昌と面会を果たし、その人となりを確認していました。

朝昌の会談での台詞から、今川家に対する忠義の心が伝わり、共に泥船を固く立て直そうと語る心意気に感心し、桜が嫁ぐに相応しい人物として直虎も南渓和尚も朝昌を信頼に足る人物だと評価していました。

史実での庵原朝昌は1556年に生まれ、1640年に亡くなっています。井伊家の虎松(後の井伊直政)は1561年に生まれ、1602年に亡くなっています。ということは、虎松の5歳年上、ということになるのですが、大河ではもういい青年のように感じます。

大河では三女・桜が嫁ぎました。史実では新野左馬助には一男七女があったとされていますが、何番目の娘が嫁いだのかは分かっていません。年の釣り合う娘なのならば末の方の娘だったのかもしれませんね。大河では何歳の設定なのか、ちょっと気になってしまいます。

1568年12月、武田勢が駿河侵攻を開始します。武田信玄は始め北条氏康・氏政親子と手を組み今川領を分割しようとしていましたが、北条氏政の生母で北条氏康の正室は今川氏真の祖父母である今川氏親と寿桂尼の娘で、今川家とは縁が深かったため、北条氏政はこの提案を拒否しました。そのため、信玄は徳川家康と手を組み、今川領分割の密約を結びました。大井川を境に東部を武田氏が、西部を徳川氏が攻め取ることにしたのです。

1568年12月6日、武田勢は1万2千の軍勢を持って駿河侵攻を開始しました。これを迎撃したのが、今川家の重臣・庵原忠胤です。庵原忠胤は1万5千の兵を率いて薩埵峠で武田勢を食い止めました。今川勢はよく守りましたが、武田軍が今川勢の重臣たちに内通を呼びかけており、多くの重臣が武田勢に寝返りました。そのため、清見寺に陣を構えていた今川氏真は身の危険を感じ、駿府の今川館に撤退しました。

この報が最前線に伝わると総崩れとなり、庵原忠胤率いる今川勢は破れてしまいました。

駿府も武田に占領され、氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城に逃れます。しかし、掛川城も徳川軍に包囲され、半年近くも篭城戦を行うことになりました。

北条からの援軍を受けながらも武田勢を破ることはできず、戦況は膠着状態が続きました。

1569年、武田が徳川と分割の密約を交わした遠江にも圧迫を強めたため、徳川家康は氏真との和睦を考え始めました。徳川は武田との関係を切り、北条と手を結び、氏真と家臣の安全を保証し、掛川城を無血開城させました。そうして徳川と北条の同盟が締結されました。その後氏真は、北条を頼って伊豆に逃れ、北条氏政の嫡男・国王丸(後の北条氏直)を養子とし、今川氏の統治権を譲りました。これにより戦国大名としての今川家は、滅亡したのです。

今川氏滅亡後は、庵原一族は離散してしまいます。当時13歳だった朝昌は落ち延び、たくさんの主君に仕えることになります。今川氏が滅んだ後は、武田氏に仕えることになりました。

1582年に武田氏が織田信長の軍勢に敗れ滅亡した後は、羽柴秀吉の家臣・戸田勝隆に仕えました。戸田勝隆は秀吉の古参の直臣で多くの軍功をあげ、近江の検地奉行や城割奉行なども務めた人物です。

その後、羽柴秀吉の家臣の津田信成の仲介により井伊直政の家臣になりました。その時、1500石を与えられています。しかし、家臣に厳しいと言われる直政と上手くいかず、井伊家を出奔。各地を放浪することになりました。

そして、佐々成政の配下、水野勝成に召抱えられたといいます。

1588年、佐々成政の死後は松平忠吉の仲介を受けて、2000石で井伊直政に再び召し抱えられました。

大阪冬の陣で朝昌は井伊家の家老として武者奉行を務め、夏の陣では冬の陣で負傷した筆頭家老・木俣守安に代わり井伊家左先鋒として活躍しました。

豊臣方の武将・木村重成を討ち取るという大功を挙げたものの、まだ手柄を立てていない安藤重勝という若武者に功を譲ったとの逸話も残されています。

これらの活躍により、庵原朝昌は加増され、井伊家の次席家老になったのです。

最後に

1602年、井伊直政が死去した後も庵原朝昌は井伊家に仕え、代々井伊家の次席家老として続いていくことになります。

主君を何度もなくすという不運に見舞われながら、その都度新しい主君に仕え、厳しい戦国の世を渡り歩いてきました。

そして井伊家に落ち着き次席家老にまで上り詰めた庵原朝昌。忠義の武士として、直虎と南渓和尚が認めた人物は、後の井伊家を助ける存在になってくれました。

これから庵原朝昌が出演するとすれば、武田の駿河侵攻時、もしくは直政元服後になるのでしょうか。

まっすぐに直虎を見つめ、今川に忠誠を尽くそうとした忠義の若武者は、今後どんな活躍を見せてくれるのでしょうか。楽しみです。