龍潭寺の「イケメンマッチョな美坊主」として、ネットで話題になっている傑山宗俊。

市原隼人さんが、演じておられますね。逞しい肉体美が女性を魅了しています。「おんな城主 直虎」で出家したおとわの兄弟子として登場しました。

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出家したおとわにとっては兄弟子にあたる。武芸に秀でているので時にボディーガードの役割も果たし、城主・直虎を陰で支える。

とあるように、荒事の時には直虎の背後に控え、弓で援護している姿が見られます。

小松和重さん演じる昊天宗建も、おとわの兄弟子です。

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クールな頭脳派で寺の運営を取りしきっている。南渓和尚の右腕的存在。出家したおとわの教育係を任されるが…。

とあるように、優しく穏やかにおとわを気遣い指導していました。

一般的に僧というと、穏やかで威厳があって仏の道をひたすらひたむきに進む知的なイメージがあります。武闘派とは、真逆な印象を持ってしまいますね。

しかし、この戦国時代、僧が武力を持つことは、珍しいことではなかったのです。

イケメンマッチョな傑山は強弓の使い手、穏やかそうな昊天は薙刀の名手。実は、この方々も大変な武闘派僧で、しかも後の龍潭寺三世と五世という、僧としてもとても優秀な方たちだったのです。

今後、井伊家のピンチ、後の井伊直政を助ける美僧たち。この方々、一体どんな人物だったのでしょうか?

戦国時代における寺院の役割

戦国時代の寺院は、宗教を広め、葬式や法事、お墓の管理だけでなく、様々な役割を担っていました。

1つは、仏の教えを広め、僧たちが修行する場。仏事全般を取り仕切る場です。これは現代でも変わりありませんね。

この頃は、現代よりも宗教が民衆に根付いていたので、寺院を神聖なものとして大切に扱っていたようです。

2つ目は、漢字を中心とした学究の場でした。仮名・漢字の読み書きや算術、中国の古典である四書(大学・中庸・論語・孟子)や五経(春秋など5種類の書物)、日本の古典である万葉集や源氏物語、さらには和歌集なども学んでいたそうです。

なので、僧の中には書や詩歌などに長けていた者も多く、文化の中心でもありました。

また、有職故実(古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること)や兵法などもカリキュラムにあったそうです。

武術・医学・土木・農業などの実学も研究していたことから、経済的にも大きな影響を与える存在でした。

このようにたくさんの事柄を学ぶ学識ある僧ですから、領主や民衆の相談役のようなこともしていたようです。

「おんな城主 直虎」の南渓和尚は、井伊家の相談役・参謀のような役割を担っています。

今川家の軍師・太原雪斎も臨済宗の僧でした。

武家に広く信奉を得た寺院は、このような高い知識を得られる場として重宝され、大名やその子息たちが学ぶ場にもなりました。

江戸時代には、それが民衆にも広まって、寺子屋という名になりました。

3つ目は、領主の外交員としての役割です。寺院は各宗派の横の繋がり、ネットワークを持っています。その為、他の土地の事情に通じており、関連寺院に出向く事も多々あったため、連絡役や他の大名・領主・豪族との交渉役などにはうってつけでした。

「おんな城主 直虎」では、徳川方の松下常慶がこれにあたりますね。

4つ目は、武力を持ち、支配地域を安寧に保つ役割です。

寺院は仏教を通じて、その周辺に大きな影響力を持っていました。大規模な寺院は「お布施」を周囲の民衆から頂いていたので、その地域の盗賊の取締だけでなく、時には在地領主との紛争のために武力を持つ必要があったのです。

戦国時代の有力僧兵団としては、興福寺(宝蔵院流槍術を創始)や延暦寺(織田信長に比叡山を焼き討ちされました)などが有名ですね。一向一揆で知られる一向宗の寺院も有名です。

傑山や昊天なども、このために武芸に励んでいたのでしょう。

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戦国時代の武家と寺院の関わり

この頃の寺院は、在地の領主級の武士と深く結びついていました。

武士たちの援助を受け寺院を建立し、維持・経営も頼っていました。

武家の武運長久・家門繁昌などの祈祷の任務、また、菩提寺としての役割を寺院が担っていました。

家督を継がず、分家にもならない武家の次男や三男などは僧になる者も数多くいました。その為、武家と寺院の結びつきは深かったのです。

武家の子息が僧になることで、武家の中にもたくさんの繋がりが確立され、さらに同じ宗派の地方寺院との繋がりにより、寺院は多くの情報を得ることができるのです。

それゆえ、前述しましたが、情報通であり、博識であった僧は武家の相談役や参謀・軍師としても活躍していたのです。

さらに、広大な土地を有する寺院は、戦国大名などが領地外に移動する際に、宿泊先としても利用されました。

その理由は、武家が戦勝祈願をするために寺院に立ち寄ったから。寺社の周りには、道ができており進軍に便利だったから。大抵の大きな寺社は、市などで発展しそれを中心に門前町ができているため便利だった、などの理由があげられます。

時に、武力をもって武家と争うこともありましたが、この頃の寺院と武家の間には深い繋がりがあったのです。

傑山宗俊の生涯

生年不明、龍潭寺の南渓瑞聞の弟子で、1556年頃、師・南渓瑞聞から傑山の号を授かりました。

確たる記録が残されていませんが、僧兵として修行を積み、武芸の達人、特に強弓の使い手であったとされています。

大河ドラマでは、井伊家や直虎のボディーガードのようなことをしている頼もしい頼れる僧ですね。南渓瑞聞が井伊家の参謀としての役割を担っていたのならば、弟子である傑山も井伊家の守護をしていたのでしょう。

直虎の死後、1584年に小牧・長久手の戦いに井伊直政(虎松)が徳川方として出陣する際、直政は大将として先鋒を任されました。南渓瑞聞は、武芸の達人である傑山と昊天に龍潭寺に伝わる「日月松の扇」を持たせ、直政に同行させたと言われています。

この長久手の戦いにおいて、池田恒興・森長可の両隊を討ち、直政は名を挙げました。武田の遺臣を率い赤備えで戦い、奮戦したことから「井伊の赤鬼」と呼ばれ、恐れられるようになったのです。

傑山宗俊は、1589年に龍潭寺二世・南渓瑞聞が亡くなると、その跡を継ぎ龍潭寺三世になりました。武芸だけでなく、僧としても優れた方だったんですね。

1590年、家康が関東に移封になった時には、京の豊臣秀吉のもとへ出向き、龍潭寺の領地安堵の朱印状をもらうなど、交渉術にも長けていたようです。

その後1592年、南渓瑞聞の死から3年程して、傑山は亡くなりました。

直虎が亡くなってから10年生き続け、直政を見守っていたのですね。

昊天宗建の生涯

生年不明、龍潭寺の南渓瑞聞の弟子で、武芸に優れ、頭脳も明晰な人物だったようです。

大河ドラマでは、出家したおとわの兄弟子で幼い頃のおとわや亀之丞、鶴丸、虎松や中野直久、小野亥之助など子供たちの教育係として活躍していました。

なので、あまり武芸に優れている、というイメージが湧かないかもしれませんが、実は薙刀の名手として「薙刀の昊天・弓の傑山」と言われていたのです。

1584年、昊天は傑山と共に小牧・長久手の戦いで井伊直政の側に仕え、そこで奮戦したことで武名を知られるようになりました。昊天は、その後も直政に仕え続けました。

1600年、関ヶ原の武功で直政が近江国佐和山城に移封になった時も、昊天は近江に移り住みました。

史実では1600年、龍潭寺四世・悦岫永怡(えっしゅうようい)より、昊天の号を授かったとされています。

1602年、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷がもとで井伊直政が亡くなると、その遺言を受け、佐和山に豪徳庵を建てました。

1611年には、臨済宗本山妙心寺の九十七世住職に就任。

1615年、彦根に弘徳山龍潭寺を創建し、開山として迎えられました。その後、井伊谷龍潭寺五世となりました。

没年は、1644年。傑山が亡くなってから50年もの年月が経っていました。

武芸だけでなく、僧としてもとても優秀で直政の信頼も厚かった事がよくわかります。

ところで、生年が不詳ですので、細かい年齢のことはわかりませんが、史実ではこのように記されており、大河ドラマで考えられる年齢とは少し違うように感じます。直虎と同じ世代だったとしたら100歳以上。直政と同じ世代だったとしたら80歳くらいで亡くなったことになるのですかね。

どちらにしても、井伊家を支えた頼りになる僧であったことは間違いありません。

最後に

南渓瑞聞の弟子として井伊家を守り、支えてきた2人の僧、傑山と昊天。

井伊家が取り潰され、後継の虎松は三河・鳳来寺に逃亡という最中、先が見えない厳しい戦国の時代を生き抜き、井伊家を支え続けました。

小牧・長久手の戦いで武名を挙げ、「井伊の赤鬼」と恐れられながら、どんどん武功を挙げ、後の徳川四天王とまでなった直政の努力、能力も素晴らしいものでありましたが、その栄光には傑山と昊天という2人の僧の活躍も大きかったのではないでしょうか。

これから大河ドラマは、菅田将暉さん演じる24代井伊直政が登場してきます。

直虎のボディーガードから、直政の側役に引き継がれる2人の僧の活躍、合戦シーンなど、とても楽しみです。