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おんな城主 直虎。徳川家康を支えた続けた酒井忠次の生涯と、井伊直政との関係。

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徳川家康の重臣で、家康が今川家の人質として駿府にいた時も臣従していた古参の武士、酒井忠次。

「おんな城主 直虎」では、みのすけさんが演じられています。

武田・徳川の駿河侵攻。今川からの脱却を試みて徳川と通じたはずの井伊家。今川方の目付として直虎と対立していると見せかけていた井伊家・筆頭家老の小野政次は、その日を限りに直虎と一緒に頑張ってきた今までの苦労が報われるはずでした。しかし、井伊谷三人衆の一人・近藤康用の言葉を酒井忠次は重く受け止め、小野政次は磔に追い込まれてしまいました。

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直接手を下したのは近藤康用かもしれませんが、酒井忠次がそれに一役買ったのは間違いありません。

さらに、家康の決断に逆らい「みせしめのため」の一言で気賀の民を蹂躙しました。

井伊にしてみれば、これほどの悪人はいません。

また、みのすけさんの表情・演技が素晴らしく、家康の言葉に頷きつつも自分の信念を貫き、その為には汚いことも厭わない意志の強さを感じさせます。また、対照的にまだ若い家康の不器用な優しさや気弱な様子、臣下を十分に掌握できていない弱さや脆さなどが際立っています。

大河ドラマでは悪役を一手に引き受け、徳川を牽引しているように見えますが、史実での酒井忠次は、徳川第一の功臣、徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭と位置づけられている大変な重臣です。

一体どんな人物なのでしょうか?

目次

松平家の略歴

酒井左衛門尉家(酒井忠次の一族)が代々仕えた松平家には厳しく、過酷な歴史があります。

酒井忠次が生涯仕えることになった松平広忠や徳川家康の生涯を簡単に見てみましょう。

なぜ幼かった家康が織田家や今川家の人質にならなければならなかったのでしょうか?

酒井忠次は、1527年、徳川の前身である松平の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河の額田郡井田城に生まれました。

元服後は家康の父である松平広忠に仕えました。

幼名は小平次、小五郎。後に左衛門尉(通称)と称しています。

酒井家が仕えた松平家は、三河国の国人土豪で織田と今川に挟まれていました。

酒井忠次が8歳、松平広忠が10歳の時、広忠の父・清康が亡くなりました。清康は、三河の国を統一させた人物でした。

1535年12月、三河統一の勢いに乗った清康は、尾張に進軍し、織田信秀の弟・信光の守る守山城を攻めていました。その最中、大手門付近で家臣・阿部正豊に斬られ亡くなってしまいました。これは清康と確執のあった清康の叔父・松平信定の策略であったと言われています。

その後、10歳で家督を継いだ広忠は、織田信秀による三河侵攻を受けました。松平家総力を挙げ、何とか凌いだものの、広忠はかねてから松平家の乗っ取りを画策していたとされる大叔父・信定の圧力を受け、三河の国を追われてしまいます。

広忠は伊勢を放浪しつつ、松平信孝(清康の弟)や松平伝十郎と密かに連絡を取り、今川義元にも助力を仰ぎ、後に今川の計らいで三河岡崎城に帰還を果たしました。

その後、1540年、水野忠政の娘・於大の方と結婚、1543年、嫡男・竹千代(後の家康)が誕生しました。

広忠が岡崎に帰還後は、織田との戦いが激しくなってきました。

1542年、第1次小豆坂の合戦が始まりました。清康が亡くなり、勢力の弱まった松平家の三河領の覇権を争い、織田信秀と松平・今川連合軍で戦ったのです。この戦いでは織田方の小豆坂七本槍の奮戦によって織田軍の勝利と言われていますが、一説には虚構であったとも言われています。この時の今川軍の大将は太原雪斎でした。

竹千代が3歳になった頃、於大の方の父・水野忠政と代替わりした於大の方の兄・水野信元が織田と同盟を結んだため、今川に庇護されている広忠は泣く泣く於大の方を離縁しました。3歳と幼かったにも関わらず、竹千代は母と生き別れになってしまったのです。

さらに織田との戦は続きました。1547年、広忠は迫り来る織田の勢力に対抗するため、今川に援助を求めました。すると今川は嫡男・竹千代を人質として差し出すことを要求しました。

この要求を受けて、松平は今川へ当時6歳だった竹千代を人質として送ることになりました。駿府に送る途中、立ち寄った田原城で、田原城主・戸田康光の裏切りにより、竹千代は拉致され、織田信秀のもとへ送られてしまいました。

織田信秀は竹千代の身柄を利用し、広忠に織田の傘下に入るよう説得しましたが、広忠の意志は固く、今川への恭順の姿勢が揺らぐことはありませんでした。

そして1548年、第2次小豆坂の合戦が行われました。

織田信秀は庶長子・信広を先鋒、今川勢は太原雪斎を大将、朝比奈泰能を副将とし、小豆坂でぶつかりました。この戦いで今川勢は勝利。しかし、三河をめぐる争いは絶えることはありませんでした。

同年、竹千代の身柄は、まだ織田にありました。しかし竹千代の父・広忠は家臣の手に掛かり刺殺されてしまったのです。松平の拠点・岡崎城は無主状態になってしまいました。この報を受けた今川義元は太原雪斎に命じ、山崎城・安祥城攻略を開始しました。そして安祥城を攻め落とし、城主・織田信広を捕虜としたのです。

太原雪斎は、松平の次期当主・竹千代の身柄と先の合戦で得た捕虜・織田信広との人質交換の交渉に成功し、竹千代は駿府に引き取り、岡崎城には今川から代官を派遣することになりました。これにより松平氏の断絶は免れたものの、西三河は今川氏に支配されることになったのです。

こうして、竹千代の身柄は今川の本拠・駿府預りとなり、これから19歳までの間、長きに渡る人質生活を送ることになるのです。そして、そこに臣従したのが竹千代より15歳も年上だった当時23歳の酒井忠次なのです。

若い頃の家康を支えた忠次の武勇

酒井忠次は、弘治年間(1555年から1558年の間)の初期頃から三河福谷(うきがい)城に住んでいました。

1556年、織田方の柴田勝家から攻撃を受けた際、忠次は城外に出て激しい攻防を繰り広げ、柴田勝家を追い払いました。

1560年、桶狭間の戦いの時、忠次は松平軍の先鋒部隊で活躍し、織田家の丸根砦を攻め落としました。しかし、織田信長の奇襲により今川義元が討たれてしまいました。義元討死の報を聞いた家康は、その混乱に乗じ、駿府には戻らず、織田が攻めて来ると、今川勢が見捨てた松平の本拠・岡崎城に戻ったのです。

家康が今川からの独立を果たすと、忠次はその後、徳川家の家老となりました。

1563年、三河の一向一揆が勃発しました。徳川の譜代家臣や酒井氏の多くが一向一揆に与しましたが、忠次は家康に従いました。

1564年、家康は、三河支配の重要拠点の一つで、今川氏の統治下にあった吉田城を攻略。守将の小原鎮実を撤退させ、無血開城させたという功を上げた忠次を城代に任命しました。これにより忠次は「東三河の旗頭」として家康の別働隊としての東三河衆を取りまとめることになりました。

1568年、忠次は武田家との交渉役として山県昌景・穴山信君と交渉し、徳川・武田の同盟を成立させました。この同盟により武田は駿河侵攻を開始、同時に徳川は遠江侵攻を開始しました。井伊谷城・白須賀城・曳馬城を攻略、掛川城を無血開城させました。忠次はその際先鋒として活躍、曳馬城の接収を担当しました。この曳馬城は、武田の侵攻に備えるため岡崎から本拠を移した家康が入城し、浜松城と改称されました。

1570年、清洲同盟にて織田と協力関係にあった徳川家は織田の浅井・朝倉への攻撃に援軍を派遣、姉川にて織田軍と合流しました。朝倉景紀・前波新八郎らが徳川勢に攻め掛かり、一番隊・二番隊である酒井忠次・小笠原長忠が応戦し、戦いの火蓋が切って落とされました。途中、数に勝る朝倉勢の前に劣勢に陥りましたが、家康が榊原康政に命じ、朝倉勢の側面を衝かせる作戦が成功し、織田・徳川軍が勝利しました。

1573年、武田の西上作戦を阻止するべく三方ヶ原で武田軍と激突、忠次率いる徳川軍の右翼は武田軍を打ち破りましたが、徳川軍は大敗をしてしまいます。

しかし、武田信玄の急死により西上作戦は頓挫、武田勢は本国へ撤兵しました。

1575年、家督を継いだ武田勝頼は、再び侵攻を開始、長篠城を包囲しました。織田・徳川連合軍はすぐに長篠城救援に向かい、設楽原に着陣、鉄砲隊を主力とする布陣を整えました。

一方、忠次は織田信長の命を受け、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵を2千、さらに信長の鉄砲隊5百と金森長近を加え4千の別働隊の指揮を執り、鳶ヶ巣山砦後方から奇襲攻撃を仕掛けました。忠次は鳶ヶ巣山砦を陥落させ、これにより武田軍の名のある武将を数多く討ち取りました。有海村の武田支軍も討ち、さらに、武田本隊の退路を脅かすことにも成功しました。戦後、信長から「背に目を持つごとし」と賞賛されました。

1579年、家康の嫡男・信康が信長から武田との繋がりを疑われ、家康の信任が厚かった忠次は弁解の使者として安土城に赴きました。しかし、忠次は信康を十分に弁護できず、信康の切腹を防ぐことができませんでした。これには諸説があり、忠次が一切の弁護をしなかったとも、家康の意思であるとも言われています。

信康を守れなかった忠次でしたが、以降も家康の重臣として活躍します。本能寺の変の直後、明智光秀を討伐しようとした徳川軍の先陣を務めています。

さらに、1582年、小牧・長久手の戦い、羽黒の戦いの中で森長可を敗走させる活躍を見せました。

1585年、西三河の旗頭であり、長く家康の片腕として共に戦ってきた石川数正が出奔し、それ以降、家康第一の重臣とされ、1586年には家中最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されています。

1588年、長男・家次に家督を譲り、京都の桜井屋敷に隠居しました。この桜井屋敷は豊臣秀吉から与えられたもので、世話係と在京料1000石も与えられました。

1596年、京都桜井屋敷で死去、享年70歳でした。

数多くの逸話

戦国時代、不安定な三河の地で勇猛果敢に戦い続けた酒井忠次。ただ、戦うだけの人ではありません。多くの逸話が残されていました。

徳川軍が大敗を喫した三方ヶ原の戦い。家康が浜松城に逃げ帰った後、忠次は浜松城の櫓の上で太鼓を打ち鳴らして味方を励まし士気を上げ、武田方には伏兵があると疑わせて引かせたという「酒井の太鼓」の話があります。これは後に新歌舞伎十八番の一編となります。

また、1573年、正月に武田家から送られてきた「松枯れで竹類なき明日かな」という句に「松枯れで武田首なき明日かな」と濁点を加えて読み返し、門松の竹を、首を切り落とすかのように斜めに切り落とした、という逸話もあります。

「海老すくい」という踊りが得意で、諸将の前で踊りを披露し、場を大いに盛り上げたという話もあります。家康が北条氏政と同盟を結ぶための酒宴の席でも披露しているそうです。

徳川四天王の一人、榊原康政が、多くの武田家臣が井伊直政に配されたことに不満を持ち、忠次に漏らしたところ、忠次が康政を叱責し、直政との仲を取り持ったという逸話も残されています。

長篠の戦いで大功を上げた鳶ヶ巣山の奇襲攻撃。これは、信長の本営・極楽寺山での軍議にて忠次が出した策だったのですが、軍議では「そのような小細工は用いるにあらず」と信長に叱責されてしまいました。しかし、軍議終了後、忠次は信長に呼び出され、その作戦を遂行するように命じられました。「先に叱責せしは間者に事が漏洩せんことを恐るるがため、すぐに出立せよ」と信長の鉄砲隊を加え約4千の兵を持ってこの奇襲作戦は行われたのです。

忠次の晩年

家康が関東に転封した時、既に隠居していた忠次は、豊臣秀吉から京に屋敷を貰いそこで隠居生活を送っていたのですが、家督を継いだ家次は関東に3万石の領地を与えられました。しかし、他の四天王の井伊直政は12万石、本多忠勝は10万石、榊原康政も10万石を与えられていました。あまりの差に忠次は家康に「息子の石高を上げて欲しい」と頼みますが、家康からは「お前も我が子は可愛いか」と皮肉を言われたのです。

家康の嫡男・信康を切腹から守れなかった忠次を家康はこの時、責めたのです。

目を患っていた忠次は京都桜井屋敷で静かに晩年を過ごし、70歳で永眠しました。

家次はその後、下総臼井藩3万石から越後高田藩10万石になります。さらに子孫は出羽庄内藩17万石の大身となり、譜代の名門として後後まで栄えることになるのです。

最後に

戦いに明け暮れた人生を送った酒井忠次。無骨で忠義に厚い三河武士として、生涯家康を支え続けました。長い人質生活を共に過ごし、その後は戦に明け暮れる毎日。家康の祖父である松平清康の娘・碓井姫を正妻に迎えた忠次は家康の叔父でもありました。

戦上手で交渉上手、機転もきき場を盛り上げることもできるムードメーカー。若い家康にとって、このような忠次はさぞや頼りになったことでしょう。

大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、井伊家断絶の一因となった酒井忠次。井伊家にとっては大悪人です。

しかし、命の危機に何度も晒された家康の側に常におり、過酷な時代を共に生き抜いてきたからこそ、何よりも家康が、徳川が大事という強い信念を持つ、忠義の武士であったのだと思います。

これから、菅田将暉さん演じる井伊直政が徳川家に仕官します。同じ徳川四天王として肩を並べることになります。自分が陥れた子供が自分と同じところまで出世してくるのです。

その時、お互いの気持ちは一体どのようなものなのでしょう。

忠次は、直政と榊原康政の仲を取り持ったりする逸話もあることですし、井伊家への仕打ちを少しは反省しているのでしょうかね。

家康の嫡男・信康の切腹事件、瀬名姫の殺害、みのすけさん演じる酒井忠次には、まだまだたくさんの見せ場が残っています。

「おんな城主 直虎」、これからも目が離せませんね。


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