三方ヶ原の戦いで、徳川家康が武田軍のあまりの恐ろしさに脱糞してしまったという有名な逸話があります。

その時、徳川軍と戦い、徳川家康に多大な恐怖を与え、その強さに憧れを抱かせた武将が、武田四天王の一人、武田軍最強と言われた山県昌景です。

武田信玄がその強さを認め、直に強さを知った徳川家康はもちろん、周辺諸国からも「武田に山県あり」と恐れられていたという人物です。「おんな城主 直虎」では山本龍二さんが演じられています。

その強さだけでなく、軍略や内政、外交にも長けていたと言われる人物です。

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武田軍の強さの象徴、赤備えを携え各地で武功をあげるその姿は、味方からは絶大な信頼を、敵軍からは恐怖の象徴として恐れられていました。

「おんな城主 直虎」に登場している井伊直政は後に徳川四天王と呼ばれるようになり、「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」と称されるようになるのですが、「赤備え」のルーツは山県昌景隊の赤備えだったのです。

井伊直政にも影響を及ぼすことになった山県昌景とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

飯富氏 飯富虎昌

飯富氏は甲斐源氏の一族で、源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔と言われています。

山県昌景は、武田家譜代家臣・飯富氏の一族で1529年に生まれました。武田家の譜代家老・飯富虎昌の弟とされていますが、年齢差が大きいため甥であるとも言われています。

別名を飯富源四郎、三郎兵衛尉。

飯富虎昌・昌景兄弟の父とされている人物は、武田信玄の父・武田信虎の家臣であった飯富道悦であるとも、飯富道悦の息子・源四郎であるとの説もあります。

昌景の仮名も同じ「源四郎」であったことからそのようなみかたもあるのですが、定かではありません。道悦も源四郎も1515年西郡の国人・大井信達との合戦で戦死しています。

兄である飯富虎昌は信玄の父・信虎に仕えていました。しかし、1531年、信虎が上杉憲房の後室を側室に迎えることに反発した虎昌は、栗原兵庫や今井信元と共に甲府を退去して御岳において信虎に抵抗しました。韮崎に侵攻した諏訪頼満や大井信業もこれに同調したのですが、信虎に次々と撃破され敗北。この件を許された後は信虎に臣従しました。

1536年に北条氏綱が駿河侵攻した折には信虎と共に今川軍の援軍として参戦、1538年の諏訪頼満・村上義清の連合軍との戦いでも軍功を挙げています。

1541年、武田家の宿老であった板垣信方・甘利虎泰らと共に信虎を駿河に追放し、信虎の嫡男・晴信(後の信玄)を擁立しました。以降は武田の宿老となり、1548年、上田原の戦いで板垣信方と甘利虎泰が討ち死にすると、武田家の中核として活躍しました。

1553年、長尾景虎(上杉謙信)・村上義清の8000の軍に自身が守護する内山城を囲まれた時、わずか800の手勢で奇襲作戦を決行、撃退に成功しました。

1561年の第4次川中島の戦い、妻女山攻撃では別働隊の大将を務め、武田の躍進と共にその勇名を馳せるようになりました。

虎昌は「甲山の猛虎」と呼ばれる猛将で、武田二十四将の一人に挙げられています。各地で勇猛を振るい敵味方に恐れられていました。自身の部隊に朱塗りの軍装を纏わせ、武具や指物なども赤で統一した「赤備え」の部隊を編成し率いていました。

この部隊は、騎兵のみからなる騎馬武者で構成されており、各武将の次男や三男など、自身の槍働きで身を立てなければいけない者たちを集め組織化したものです。

元々朱色は、侍の中でも多くの武功を挙げた者が大名から賜る色です。戦場ではたいへん目立つため、狙われやすい色でもあります。

飯富虎昌はこの部隊を見事に率い、武田最強部隊として戦場でその姿を見ただけで敵方の戦意が喪失するとまで言われていました。

しかし1565年、虎昌が傅役を務めていた信玄の嫡男・義信が謀反を企み、義信は幽閉。虎昌は責任を取る形で自害することになりました。享年62歳でした。

この謀反を知り、信玄に密告したとされているのが虎昌の弟・山県昌景です。義信から虎昌への密書を手に入れた昌景は、兄である虎昌の謀反であるにも関わらず信玄に報告し、連座を免れました。

これには他の説があり、「甲陽軍艦」では虎昌が昌景に聞こえるように大声で謀反の話をして昌景に伝えたとされています。

この事件により、昌景が飯富姓を名乗ることは肩身が狭いだろう、ということで、信玄は昌景に信虎時代に途絶えた名家・山県氏の名跡を継承させることにしました。さらに、兄である虎昌の赤備え部隊も昌景が引き継ぐことになったのです。

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飯富から山県昌景へ

少し時間を遡って、信玄が武田の家督を継いだ頃のことです。

この頃、飯富源四郎(山県昌景)は信玄の近習として側近くに仕え、その後使番になりました。

「甲陽軍艦」によると、信玄の信濃侵攻における伊奈攻めで初陣を果たし、神之峰城攻めで1番乗りの功名を立てました。

1552年、板垣信方の嫡男・信憲が不行跡を理由に改易されたことにより、侍大将だった信憲の兵300騎を指揮する者がいなくなり、昌景はそのうち200騎を授けられ、侍大将に昇格しました。

信玄から「源四郎の赴くところ敵なし」と言われる程の目覚しい活躍をするようになりました。

1563年には、三郎兵衛尉と名乗り、その後も戦功を挙げ続け譜代家老衆に列せられ、300騎持ちの大将になりました。

1564年には飛騨国に侵入し、江馬氏、三木氏を降しています。

1565年、義信事件が起こり、兄・虎昌は自害、兄の赤備え隊を引き継ぐことになり、信玄の計らいにより飯富姓から山県姓へ改名し、山県昌景と名乗るようになりました。

その後、1566年の西上野侵攻における箕輪城攻略戦において、赤備え隊を率いて参戦。1568年の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)、甲相同盟破綻後の北条氏との戦いにも参加しています。

軍事面だけでなく、信玄の側近として諸役免許や参陣命令、自社支配などの武田氏朱印状奏者としての活動もしていました。

さらに、美濃国の遠山氏、陸奥国(会津)の蘆名氏、三河国の徳川氏などの遠方国衆や松尾小笠原氏、室賀氏、赤須氏などの信濃国衆や、三枝氏、横田氏などの甲斐武田家臣との取次など、外交面でも活躍を見せています。

1569年には、駿河江尻城代に任じられました。

1571年、今川領国割譲をめぐって徳川と対立関係になった武田は、遠江・三河侵攻を行いました。昌景は山家三方衆(作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏を指す、奥三河の土着有力勢力)を服属させました。

1572年、信玄が西上作戦を始めると、昌景は、秋山虎重と共に信玄から3000の兵を預かり、先の戦いで武田氏に従属していた奥三河衆に先導させて、三河東部の長篠城経由で浜松方面へ進軍しました。

長篠城の南東に位置する鈴木重時の柿本城を攻撃、城主・重時を討ち果たし、さらに遠江の伊平城を攻略、二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流しました。

信玄本隊が遠江に侵攻を始めると、その勢いを恐れて天野景貫が即座に降伏、天野は信玄の道案内を務めました。信玄は、北遠江の徳川諸城(只深城、天方城、一宮城、飯田城、挌和城、向笠城など)をわずか1日で全て落とすという猛攻を見せました。

次は二俣城を攻略に動き始めた武田軍は、徳川方の本多・内藤率いる偵察隊と遭遇、偵察隊はすぐ退却するのですが、武田軍は素早い動きで追撃し、太田川の支流・三箇野川や一言坂で戦いが始まりました。

数に勝る武田軍は徳川軍を圧倒、徳川方の本多忠勝と大久保忠佐は家康を逃がすため殿を務め、この忠勝らの働きにより家康の本隊は撤退に成功したのです。

武田軍の猛攻は続き、匂坂城を攻略、水責めにより二俣城も攻略。

武田の次の狙いは家康の本城である浜松城であると考えた家康と佐久間信盛は、篭城戦に持ち込もうと備えていました。

しかし、武田軍は浜松城へは向かわず遠州平野内を西に進みました。

家康は、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を目指しているかに思えた武田軍を背後から襲う積極攻撃策を行うため、織田の援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出ました。

それを待ち受けていたのが、山県昌景です。三方ヶ原の戦いが始まりました。

先発隊を務めていた昌景は徳川軍の主力と衝突、猛攻撃を仕掛け、秋山信友と家康本陣に迫りました。家康から「さても山県という者は恐ろしき武将ぞ」と言わしめる猛攻を見せました。

わずか2時間ほどの戦で連合軍は多くの武将が討ち取られ、連合軍は大敗を喫してしまいました。

逃げる家康を昌景は追撃したのですが、徳川軍の空城の計によって警戒心を煽られ、城内に入らず引き上げています。

順調に進んでいた西上作戦でしたが、1573年、信玄が信濃伊那郡駒場にて死去すると、作戦は途中で頓挫してしまいました。

昌景は、信玄の「わしの死を3年間秘せ。そして勝頼を補佐してくれ」「明日は瀬田に旗を立てよ」という遺命を託され、武田家の重臣、武田四天王の一人・馬場信春とともに、信玄の嫡男・勝頼を補佐することになりました。

信玄の死により、武田軍は三河国より撤退したため、織田信長・徳川家康の連合軍は窮地を脱しました。徐々に勢力を取り戻し、領地を取り戻し始めます。織田・徳川軍の反攻が始まりました。

このため、家督を継いだ勝頼はもう一度三河・遠江を手中に収めるべく、勢力拡大を目指すことになりました。

1575年、勝頼は遠江・三河を再掌握するため大軍を率いて三河へ進軍、5月には長篠城を包囲しました。1万数千の武田の大軍に対し、長篠城の守備隊は500。200丁の鉄砲や大砲、周囲の谷川に囲まれた地形を駆使して武田の猛攻を食い止め、持ちこたえていました。

長篠の窮状に織田・徳川連合軍3万8千の兵が援軍に現れ、長篠城手前の設楽原に着陣。鉄砲隊を主力とした布陣をしき、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術をとりました。

信長到着の報を受けた武田軍は、昌景や内藤昌秀、馬場信春、原昌胤、小山田信茂らが勝頼に撤退を進言したのですが聞き入れられず、勝頼の側近・長坂光堅(釣閑斎)、跡部勝資らが主張した決戦を選びました。

信玄以来の昌景ら重臣は敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり水盃を飲んで決別したと言われています。

5月21日、設楽原決戦にて、武田騎馬隊は織田の鉄砲隊に敗れ、重臣や指揮官を数多く失うという甚大な被害を受けました。

昌景隊は徳川家康の軍と対峙しましたが敗退。昌景は全身に家康軍の銃弾を浴び、絶命しました。采配を咥えたままという壮絶な最期を遂げたと言われています。享年47歳でした。

武田軍の戦死者は譜代家老の内藤昌秀、山県昌景、馬場信春、原昌胤、原守胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など、1万名以上の犠牲者を出しました。

「信長公記」の長篠の戦いの部分で、討ち取った首のリストの筆頭は、山県昌景の名でした。昌景の武勇は敵方にも広く知れ渡っており、武田家の重臣中の重臣であったとわかりますし、昌景が信長にどれほど恐れられていたのかが伝わります。

最後に

武田最強の部隊、武田の赤備えを率いた猛将・山県昌景。

後年、武田四天王、武田二十四将の一人として称されました。

山県昌景の強さを、身を持って知っていた徳川家康は、武田家滅亡後、武田の遺臣を積極的に召し抱え、徳川家精鋭部隊・井伊直政の部隊に配属しています。

直政は山県昌景にあやかり自身の部隊を赤備えで編成しています。直政は小牧・長久手の戦いで先鋒を務め、「井伊の赤備え」として奮戦、その強さも継承しました。

昌景の赤備え隊が余りにも強かったため、赤備え隊は精鋭部隊・最強部隊、という印象が植えつけられています。

直政の他にも、「日本一の兵」と言われる真田信繁(幸村)が大阪夏の陣において、赤備え隊を編成しました。父や祖父が仕えた武田の強さの象徴、赤備えを用いて真田の武名を天下に示したのでしょう。

井伊直政や真田信繁といった勇将と称される武将に継承された赤備え。名だたる武将に恐れと憧れを抱かせた山県昌景の強さは、如何ばかりだったのでしょうか。

しかし、最強の騎馬隊も鉄砲隊の前には無力でした。

昌景が敗戦を予感した長篠の戦い。あの時、勝頼が昌景の進言に従っていたら、退却していたら、歴史はどうなっていたのでしょうか?もしかしたら変わっていたのかもしれませんね。