徳川幕府。264年もの長い間存続し、戦のない平和な世の中を守ってきました。

その礎を作ったのが徳川家康。15代も続く徳川幕府の初代将軍です。

「おんな城主 直虎」では阿部サダヲさんが演じておられます。

戦が嫌いな家康は知略を巡らせ、織田の非道な仕打ちに耐えながら後の世の太平のために死力を尽くします。

そんな家康に惚れ込み家康の天下取りを支え、幕府成立に多大な貢献を果たしたのが井伊直政。「おんな城主 直虎」では菅田将暉さんが演じておられます。

最愛の妻子を織田の命で殺さなければいけなかった家康。絶望の淵に落とされますが、万千代(虎松)の進言を受け、岡崎と浜松でバラバラになりそうだった徳川家を一つにまとめることに成功します。主従の絆が強く伝わってきた見所満載の回でした。

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阿部サダヲさん演じる家康の苦悩に満ちた表情や家臣を奮い立たせる場面がとても印象的でした。また、菅田将暉さん演じる万千代の家康への強い思い、己を捨て主君に尽くす決意が伝わってきました。

幕府成立後、家康は幕府が長く存続できる仕組みを作りました。鎌倉幕府は140年以上、室町幕府は230年以上も続いておりますが、戦のない世とは無縁の血生臭い時代でした。

平和だった江戸時代と鎌倉、室町の違いは何だったのでしょうか。

2018年大河ドラマ「西郷どん」で鈴木亮平さんが主役を演じる西郷隆盛は、この徳川幕府を倒し、明治維新を成し遂げるのですが、そのきっかけは何だったのでしょうか?

徳川幕府の初代将軍を務め、長きに渡る泰平の世を作り上げた徳川家康とは、一体どのような人物だったのか、まずは幼少期から19歳、人質時代が終わる頃までを振り返ってみましょう。

誕生~人質として織田へ

1542年、三河の国の土豪である松平氏の第8代当主・広忠の嫡男として岡崎城にて生まれました。

幼名は竹千代。

竹千代3歳の時、母の実家である水野家が代替わりにより今川から寝返り、敵対する尾張の織田と同盟を結びました。今川の庇護を受けていた松平家は家康の母・於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになってしまいました。

数え6歳の時、今川の人質として送られるところを、途中立ち寄った田原城で養母の父・戸田康光の裏切りにあい、竹千代は攫われ織田へと送られてしまいました。織田へ寝返らせるための取引として使われた竹千代でしたが、父・広忠は頑なに今川への恭順を貫き通したため、竹千代は、尾張国熱田の加藤順盛の屋敷で、人質として2年を過ごしました。

史料にはありませんが、そこで織田信長と知り合ったという伝説も残されています。

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織田から今川へ

その2年後、竹千代の父・広忠が家臣の謀反により亡くなりました。

織田の人質であった竹千代は、父の死を知っても駆けつけることはできませんでした。

三河国の支配を目論む今川義元は、織田との戦闘で人質としていた織田信秀の庶長子・織田信広と織田の人質であった竹千代を人質交換で取り戻し、竹千代は今川の人質となりました。

竹千代にとっては父の死から8ヶ月後、8歳の時のことでした。

松平氏の居城であった岡崎城には今川から城代が入り、8歳の竹千代は「岡崎城の城主」という肩書きはあるものの、人質として今川の居城・駿府に入りました。

これにより、三河の国は実質的に今川の属領になってしまいました。

今川人質時代

駿府で人質時代を過ごした竹千代ですが、そんなに不遇ではなかったとされています。

実祖母(家康の生母・於大の方の実母)源応尼が家康の面倒を見て、勉学は智源院の智短和尚に習いました。さらに今川家の軍師である大岩臨済寺の太原雪斎からも勉学の手ほどきを受けたとされています。

その後1555年、今川義元は自身の「元」の字を竹千代に与え、竹千代14歳の時に元服させました。以降、松平次郎三郎元信と名乗るようになりました。そして今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(後の築山殿)を娶ることになりました。瀬名の母は井伊直平(井伊直虎の曽祖父)の孫娘とされており井伊家の出身です。

次郎三郎元信の名は、後に、祖父・松平清康の偏諱をもらい蔵人佐元康と改名されました。

1558年、今川から織田に通じた賀茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻める戦いに参加しました。元康17歳、初陣でした。この戦いで戦功をあげた元康は、今川義元より旧領のうち山中300貫文の地を返付されています。

1560年、桶狭間の戦いが起こりました。元康は義元から先鋒を任されていました。

織田軍に囲まれた大高城の兵糧補給を行うため、元康は鷲津砦と丸根砦の間を突破。大高城に小荷駄を無事に送り込み、全軍無事に引き上げることに成功しました。

翌日、元康は丸根の砦を攻め落とし、今川の武将・朝比奈泰能は鷲津の砦を陥落させました。

義元が織田信長に討たれた時、元康は大高城にて休息中でした。義元討ち死の報せを受け、明日には織田が攻めて来るという混乱が城中に起こりました。元康は冷静に夜陰に紛れて岡崎城に戻る決意をしました。途中、三河の池鯉鮒で落ち武者狩りに囲まれてしまいますが、伯父・水野信元の家臣・浅井道忠による、今川勢の追撃をしているという大芝居でこのピンチを切り抜けたのです。こうして元康は岡崎城付近の大樹寺に入りました。岡崎城に残っていた今川の城番も織田の追撃を恐れて次々と退去していきました。

やがて今川の兵がいなくなると、元康はがら空きになった岡崎城に戻ったのです。

そしてこれを期に今川からの独立を果たしました。

元康19歳、11年に及ぶ長い人質生活が終わりました。

まとめ

幼少から11年間も人質として故郷を離れていた家康。

粘り強く、辛抱強く天下取りまでの道のりを耐え抜いた忍耐力はこの人質時代に培われたのでしょうか。

このようなエピソードがあります。

今川義元は竹千代が人質として駿府に来た時に、家臣に「松平の子にはむごい仕打ちをしろ」と言い渡しました。

家臣は、質素な食事を与え、休みなく厳しく武術や学問に励ませると答えました。義元はその家臣を叱責し、「朝から晩まで海の幸や山の幸いっぱいの贅沢な食事をすきなだけさせ、寝たいだけ寝かせるように。夏は暑くなく冬は寒くないようにして、武術も学問も嫌がるならば、させないで良い。とにかく好きなことをさせよ。そうすれば人はダメになる」と指示したのです。

家康はこのような教育を受けながら贅沢に溺れず、むしろ反面教師として質素な生活を好むようになりました。さらに、義元が軍略を軍師・雪斎に任せ、自身は公家の生活に溺れていく様子をよく観察していました。

長きに渡る人質生活で自由意思を奪われていた家康。それにも関わらず岡崎に戻る道を諦めずひたすらに待ち続けました。「待つ」ということは簡単なことではありません。何もせずにいれば人は怠惰になり闘志が失われてしまいます。

しかし家康は機が熟すのをひたすらに待ち、その瞬間を見逃しませんでした。

さて、家康人質時代はここまでです。

次回は清須同盟成立による織田への臣従、豊臣秀吉への臣従時代に続きたいと思います。

「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その2 徳川家康の織田・豊臣への臣従時代)。