さて、豊臣を滅亡させ、天下統一を果たした徳川家康。

戦乱の世を終わりに導いた家康が次に目標としたことは長く続く泰平の世を作ることでした。

平和な世を築くために家康が作った政策がいくつかあります。

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未完成なものもありましたが、2代・秀忠、3代・家光まででほぼ完成することになります。

その政策、江戸幕府の特徴とは一体どういうものだったのでしょうか?

幕藩体制の確立

まず家康は織豊政権では確立されていなかった社会制度を整えました。

強力な領主権を持つ将軍と藩主である大名が、土地と人民を統治するための体制と身分制度を定めたのです。

江戸幕府の政策のひとつは幕藩体制の確立です。

征夷大将軍になった家康は、260余りの武家大名と主従関係を結び彼らを統率しました。

全国の土地は、幕府の直轄領地である幕僚地と家臣(旗本・御家人)の領地、大名の領地と分かれています。江戸幕府の幕僚地は400万石、直参の旗本領と合わせると約700万石。

全国の石高の約4分の1を占めています。さらに京都・大阪・長崎などの大都市と佐渡金山・石見銀山などの鉱山を直轄地にしていました。貨幣の鋳造も江戸幕府が独占したため、幕府は大きな経済力を持って政権を維持しました。

将軍は大名に対して朱印状を与えて知行を保証し、大名はその知行内において独自の統治を行っています。幕府はその大名を掌握することで全国の土地と人を支配しました。

将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」と呼び、このような権力の体制を「幕藩体制」といいます。

大名とは将軍から1万石以上の領地を与えられた武士のことです。

一口に大名「大名」といっても3つの種類に区分されていました。

  1. 親藩(徳川氏の一族)
  2. 譜代大名(関が原の戦い以前から徳川家に仕えていた大名家)
  3. 外様大名(関が原の戦い以降から徳川家に仕え始めた大名家)

です。

この分類は幕府内の権力において大きな差となりました。

江戸幕府では譜代大名が政治の要職につく資格が有り、外様大名は基本的には幕府要職に就任できませんでした。

江戸に近いところには親藩・譜代大名を配置し、江戸から遠いところには外様大名を配置しました。

3代・家光が制定した参勤交代には、大名、特に外様大名が幕府に対して反乱できないように経済力や体力を奪う目的がありました。

ところで、大名・旗本・御家人の違いは何でしょうか。

大名は知行1万石以上の武士のことです。

旗本は将軍直属の家臣団のうち石高が1万石未満の武士で、江戸集住が原則でした。仕事としては、江戸城の警備や将軍の護衛を任務とする、軍事・警備系の役職などである「番方」、文官は、町奉行や勘定奉行、大目付や目付という幕府の様々な役職につく「役方」などがありました。

御家人も将軍直属の家臣ですが、旗本との違いは将軍に御目見えができるか、儀式や典礼で将軍の出る席に参列できるかどうか、です。

旗本には許されていましたが、御家人には許されていませんでした。

徳川幕府を長く続けるためには早急に体制を整え、幕府の力を強め、他大名が反逆の意思を持たないように力を削ぐ必要がありました。

そこで次になされた政策が大名統制です。

大名統制

大名統制のさきがけの1つが一国一城令です。

法令の発令者は2代将軍・秀忠ですが、立案者は大御所・家康です。

内容は、一国に大名が居住、あるいは政庁とする1つの城郭を残してその他の城は全て廃城にするというものです。いくつかの例外はありますが、これにより安土桃山時代に3000近くもあったとされている城郭が170まで激減しました。そのため、家臣団や領民は城下町に住むようになり城下町の発展に繋がりました。

これは、大名の軍事力抑制に加え、大名以外の家臣に城郭を与えないことで家臣に対して大名の権威を強く感じさせることになりました。

さらなる大名統制として武家諸法度を制定しました。

武家諸法度とは、江戸幕府が1611年に武家から誓紙を取り付けた3か条に、家康が懇意にしている臨済宗の僧侶・以心崇伝が起草した10か条を加えたものです。この起草は家康の命でなされたものです。

大名・旗本などの武家が必ず守らなければいけない法令で、破れば国替えや改易という厳しい処罰がくだされました。

最初の制定は1615年、秀忠が発令した元和令でした。この武家諸法度は将軍が代替わりする毎にその内容も改定されていきました。

元和令は13条ありその内容は

  • 武芸や学問を嗜むこと。
  • 新城の建設禁止、居城の補修は奉行所に申し出て指示を受けること。
  • 幕府の許可を得ずに婚姻してはいけない。

などです。

1635年、3代将軍・家光は林羅山という儒学者に起草させ寛永令を発令しました。

その時に付け加えられたのが

  • 参勤交代の義務付け
  • 江戸に妻子を住ませること
  • 私的な関所設置の禁止
  • 500石以上の大船の造船禁止

などでした。

これらの法令により大名の権限は大幅に制限されることになりました。

さらに、禁中並公家諸法度も制定されました。

これは、朝廷や公家を統制する法度です。全文は17条からなり1~12条は皇室及び公家が厳守すべき諸規程で、13条以下が僧の官位についての諸規程です。

これは江戸時代を通じて一度も改定されることはありませんでした。

その内容とは、

  • 天皇は第一に学問を修めること
  • 官位の席次について

などですが、政治の実権は幕府が握っていると明確にしたものでした。

幕府は諸大名に領地を与え、その石高に応じて諸大名に軍役を課しました。

その中の1つに手伝普請というものがありました。これは、幕府関係の城郭や河川などの土木建築工事を諸大名に負担させるものです。江戸時代初期の手伝普請は、大名が費用を負担し人員まで負担するもので、このような動員は人足として駆り出された農民の村を疲弊させ、ひいては藩財政の窮乏に繋がっていきました。

さらに必ず一定量の兵馬を常備するように命じていました。

さらにキリスト教の禁止や外国との貿易を長崎の出島でしか行わせない鎖国政策を実施しています。2代将軍・秀忠の治世に始まり、3代将軍・家光の治世に完成しました。

大名が貿易することを禁じると同時に外国が日本の政治に介入しないような対策もしていました。このため外国との貿易は幕府が独占し、長崎奉行を送って管理統制させています。

大名の組織(藩の政治)にも変化が現れました。

かつての領地支配機構は、手柄をあげると領地をもらえる地方知行制だったのですが、一国一城令により家臣たちが城下町に住むようになると領地をもらってそこを統治するのではなく、領地は全て藩のもので家臣は領地ではなく藩が取り立てた年貢から俸禄(米)を貰うようになったのです。

幕政の整備

そして実際に政治を行う幕府内の役職役割をはっきりと定めました。

初代・家康や2代・秀忠、3代・家光などは親政(君主自身が政治を行うこと)をとっていましたが、基本は老中による合議制としました。

将軍の下に老中・若年寄・寺社奉行・京都所司代・大坂城代などがおり、老中の下には大目付・町奉行・勘定奉行・遠国奉行などがいました。若年寄の下には目付・書院番頭・小姓組番頭などがいました。

老中や若年寄などの要職には譜代の大名が就くことになっていました。

大目付、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)などは譜代、あるいは旗本が実務を担い幕府の政治を支えていました。

臨時で大老という役職が置かれることがあります。大老は老中の上位に位置する最高職です。通常幕府の最高職は老中ですが、何か特別重要な案件や事情がある場合、臨時で大老が配置されます。定員は一名で井伊・酒井・土井・堀田などの4家から選ばれました。

江戸幕府と鎌倉・室町幕府との違い

江戸幕府は鎌倉幕府、室町幕府に続く3つ目の幕府です。そのためなぜ幕府が長く存続できなかったのか、その失敗をよく学んでいました。

例えば鎌倉幕府では、御恩と奉公のバランスが崩れ、奉公に対しての恩賞を与えることができなくなった幕府に対しての不満がつのったことが滅亡の要因の一つとなりました。

また、将軍を助ける執権という役職の力が強く、幕府の実権を握った時の執権・北条氏が遊興に明け暮れ政務を怠ったため、不満を募らせた御家人たちにより倒されたのです。

室町幕府では全国の守護大名の力が強く、幕府と将軍の力は不安定でした。

室町幕府の将軍は権力が弱かったので、有力大名に頼らねばならず(例えば織田信長など)有力大名の力がどんどんと増してきて戦国時代になってしまい、幕府の組織・権威を維持することが難しくなりました。

幕府の権威回復・秩序の維持を目指し、躍進中の織田信長を頼った室町幕府15代将軍・足利義昭でしたが、信長に利用され対立が起こるに至って信長の周囲の大名に声をかけ信長包囲網を作り上げ、信長撃破を試みました。信長は苦戦を強いられましたが、結局は義昭を追い詰め、追放に成功しました。これにより室町幕府は消滅したのです。

これらを学んだ江戸幕府では、一人に権力が集中しないように老中は複数人置き、外様大名などを幕府の政治に参加させないようにして幕府の力が弱体化しないように工夫をしたのです。

世襲制のために

江戸幕府を長く存続させるためには直系の子孫を多く残す必要があります。

戦国時代などでは戦や病のため直系の男子の血筋が途絶えることはよくありました。

徳川家では直系の血筋が途絶えた場合、将軍を出す役割を担う親藩というものがありました。

親藩とは、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩です。

親藩にもいくつか種類があります。

御三家は将軍家に次ぐ家格を持っており各家の初代は、

  • 尾張徳川家-徳川義直(家康の9男)
  • 紀州徳川家-徳川頼宣(家康の10男)
  • 水戸徳川家-徳川頼房(家康の11男)

です。

御三卿家の家格は御三家に次ぎます。幕府から10万石を支給されていましたが実効支配できる領地は日本各地に分散しており、領地支配は代官所によって行われていました。

  • 田安徳川家-徳川宗武(8代将軍徳川吉宗の次男)
  • 一橋徳川家-徳川宗尹(8代将軍徳川吉宗の4男)
  • 清水徳川家-徳川重好(9代将軍徳川家重の次男)

御三卿は8代将軍吉宗が次男と4男を取り立てて別家としたのが起こりです。

御三卿当主は常に存在しているわけではなく不在のまま家だけが存続することが許されていました。なぜならそもそも領地がなく藩ではなかったためです。

御家門という徳川将軍家の一族及び家康の兄弟の家系の大名家、旗本家も親藩です。

御家門は家康の元の姓である松平を名乗ることが許されていましたが、幕府の役職に就くことはありませんでした。

  • 越前松平家-家康の次男結城秀康の子孫
  • 会津松平家-2代将軍秀忠の庶子・保科正之の子孫
  • 越智松平家-6代将軍家宣の弟・松平清武の子孫
  • 奥平松平家-家康の外孫松平忠明の家系
  • 久松松平家-家康の異父弟の家系

将軍家の一門としての格式を重んじられました。

将軍家のお世継ぎが絶えないように、将軍は多くの側室を迎え後継を得ようとするのですが、それでも直系の血筋が途絶えた場合、このような親藩から将軍を輩出したのです。

これにより徳川家の血筋が絶えることなく将軍家は続いていったのです。

まとめ

幕府成立後、早急にしなければいけないことは、幕府の力を強力に磐石にすることでした。

そのため諸大名の力を削ぎ、幕府の体制を整えました。

初代・家康から3代・家光まではこの体制づくりと諸大名の財力・武力の削減に力を注いでいました。

このような武力を背景にして行われる専制的な政治を「武断政治」といいます。

1616年、大阪夏の陣で豊臣滅亡を見届けたその1年後に家康は亡くなりました。

今後の幕府は2代・秀忠が背負うことになります。

幕府の礎を作った偉大な父・家康の影になり、あまり目立たない印象の秀忠ですが、政治家として大きな業績を上げています。

次回は、徳川秀忠の政治と功績についてまとめてみたいと思います。

「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その6 武断政治から徳川秀忠の政治)。