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「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その8 文治政治の始まりから元禄期。徳川家綱から徳川家継の政治)。

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家光が48歳で亡くなり家綱が4代将軍職を引き継いだ時、家綱は僅か11歳でした。

秀忠や家光のように大御所としてサポートしてくれる父はいません。

しかし、家綱には信頼できる優秀な家臣たちがついていました。彼らの補佐を受けながら、家綱はこれまでと同じように、武力による政治を続けるはずでした。

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しかし、大名たちへの苛烈な締めつけは、大名や領民の疲弊をうみ、治安の悪化などの事態を引き起こしました。そんな時に、これまでの政治を見直さなければいけない事件が起こりました。

それをきっかけに、武断政治から文治政治へと変換していくことになります。

目次

4代将軍・家綱~文治政治への移り変わり

幼くして将軍となった家綱には、これまでのような親政は行えませんでした。

しかし、幼い家綱には優秀な家臣たち、秀忠の庶子である叔父の保科正之や譜代の家臣たち、「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平信綱らが将軍補佐として大きな役割を果たしました。

彼らはこれまでの将軍主導の政治ではなく大老や老中が話し合って決める合議制へと制度を変えていきました。

そのきっかけとなったのが松平定政事件と慶安事件です。

松平定政事件とは、大名統制により幕府権力が強まった結果、旗本たちの困窮がひどくなり、それを見かねた三河苅谷藩藩主・松平定政が領地・屋敷・武器など全てを幕府に返上し、自らは僧になり江戸の町を托鉢して歩くという行動にでた事件です。

自らが返上した物を旗本救済に当てて欲しいと幕府に願い出ましたが、幕閣はこれを「狂気の沙汰」として定政の所領を改めて没収し、定政は永蟄居となりました。

さらに軍学者として名高い由井正雪を中心とする浪人たちの反乱未遂事件が起こりました。慶安事件です。反乱は仲間からの密告で未遂に終わり、由井正雪は自殺。その遺言には定政が起こした行為に対する幕府の対応を「忠義の志を欺く行為」と厳しい批判を残しました。

事件に関わった者たちも厳しく処罰されました。

この事件の背景にあったのは、諸大名家の取り潰しによる浪人の増加にありました。

江戸時代初期、福島正則や本田正純なども改易されています。

浪人の増加の原因の1つとして「末期養子の禁」がありました。

これは、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に家の断絶を防ぐために緊急に養子縁組することを禁じた法です。

このため、後継がいなくなった武家が改易され、浪人が溢れたのです。その数は10万人と言われていました。

保科正之を中心とした幕府は浪人対策に乗り出し、末期養子の禁の緩和や武家諸法度を改訂して殉死の禁止、大名証人制度を廃止しました。

大名証人制度とは

  • 大名の妻子を人質として江戸に住まわせること。
  • 家老クラスの重臣からは身内を交代で人質として提出させ江戸に住まわせること。

でした。

また、殉死の禁止とは、主君への忠誠心を示すため、主君の死に殉ずるということです。

2代・秀忠や3代・家光が亡くなった時、重鎮達が次々と殉死しています。

このようなことがあると、有能な人材が殉死によっていなくなってしまい、幕府が成り立たなくなってしまう危険性がありました。

これまでの武力に頼った政治による情勢不安を無くすべく、これまでの武断政治から文治政治への政策の切り替えが必要となったのです。

寛永の遺老と呼ばれ、幼少期の家綱を支えた重臣たちが表舞台から退くと、家綱は酒井忠清を大老に置き、老中合議制とともに家綱自身の上意による幕政を開始しました。

家綱治世の後期になると、家綱は寛永の大飢饉での反省を経て農政に力を入れ始めました。

宗門改(民衆の信仰する宗教の調査)の徹底や宗門人別改帳の作成、諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、海上輸送の開拓などの流通・経済政策なども行われていきました。

しかし、明暦の大火による江戸の消失と再建、さらに金山の採掘量減少、米価の下落により幕府財政は逼迫するようになりました。

家光が残した500万両という大金は、瞬く間に減っていったのです。

5代将軍・綱吉

家綱が40歳で亡くなると弟の徳川綱吉が5代将軍となりました。

綱吉は家光の4男として生まれ、上野館林藩主となっていましたが、家綱に跡取りとなる男子がおらず、その養子と目されていた家光の3男・綱重も家綱よりも先に亡くなっていたため、綱吉が家綱の養嗣子となり、後を継ぐことになりました。

綱吉は、政治に積極的に参加し、将軍権威の向上に努めました。

酒井忠清を大老から退かせ、堀田正俊を大老としました。幕府の会計監査のために勘定吟味役を新たに設置し、有能な小身旗本などの登用を積極的に行いました。今まで幕閣には入れなかった外様大名も一部登用されています。

綱吉も家綱が進めていた文治政治を推進しました。学問好きだった綱吉の儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行などの学者を輩出するきっかけとなりました。

綱吉治世の前半は「天和の治」と呼ばれ善政であったと称されています。

大老であった堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、それ以降綱吉は大老を置かず、側用人を配置し重用するようになりました。

特に柳沢吉保は館林藩士の庶子として生まれましたが、綱吉が将軍の後継として江戸城に入ると、それに伴い吉保も幕臣となり、側用人にまで出世することになりました。

また、柳沢吉保が見出した荻原重秀は、逼迫した財政状況を改善するため、太閤検地以降実施されていなかった5畿内の検地を実施しました。

その際に、土豪出身の世襲代官の弊害に気づき、綱吉や幕閣に対し提言し、それを受けた幕府は世襲代官を一掃し、能力のあるものが登用されるようになっていくのです。

重秀が行ったことといえば、貨幣改鋳も有名です。

当時、金銀の産出量が低下し、また貿易により海外に金銀の流出が続いていました。

貨幣の需要が増大しているにも関わらず、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞するという、デフレ状態になっていました。この当時、幕府の財政状況は、悪化の一歩を辿っていました。

財政破綻を防ぐために経済政策を任された重秀は、金銀の含有率を減らした貨幣改鋳を行い、元禄金・元禄銀を作りました。重秀が行ったこの改鋳によって幕府には500万両の差益金が生まれました。貨幣価値の下落に直面した商人たちは貯蓄から投資に転じ、改鋳前には幕府から商家へと流れる一方だった経済構造に変化が生じ、その結果元禄好景気が起こったのです。

しかし、この時期、関東の元禄地震や東海・南海の宝永地震、富士山の宝永大噴火などの自然災害、さらに宝永の大火により内裏消失、将軍代替わりなどが起こり、出費が重なり幕府の赤字財政からの脱却には至りませんでした。

佐渡金山再生策や長崎貿易を増加させ運上金を徴収、大名への課税、酒造家に50%の運上銀をかけるなどの政策を行いましたが、それでも幕府財政が回復することはありませんでした。

6代将軍・家宣

1709年、64歳で綱吉が亡くなると6代将軍に家宣が就任しました。

家宣は3代将軍・家光の3男・家綱の庶子で、5代将軍にと名が上がりましたが、堀田正俊らが綱吉を強力に押したため、その時には将軍には付きませんでした。

しかし、綱吉の嫡男が亡くなり後継がいなくなると、綱吉の娘婿の紀州藩主・徳川綱教ではなく、家光の孫である家宣が将軍となりました。家宣48歳の時でした。

これに伴い、家宣の甲府徳川家は断家となり、家臣団も幕臣として編成されることになりました。

家宣はまず、宝永通宝の流通と酒税を廃止、生類憐れみの令も一部を残して廃止しました。

綱吉の死後、幕府内の状況は一変し、新井白石らが権勢を持ち始めました。

側用人だった柳沢吉保は隠居を出願し、代わりの側用人には間部詮房が就任しました。勘定奉行には他に適役がいないということで引き続き荻原重秀が務めていました。

重秀は、高純度の慶長金銀を回収し、金銀含有率の低い元禄金銀を発行し、家宣の時代になってもさらに純度を下げた宝永金銀を発行し幕府の財政補填をしていました。

この政策は一時的には幕府財政を潤しましたが、実態の経済規模と発行済通貨量が著しく不釣り合いになりインフレーションが発生していました。

また、重秀自身にも汚職の噂が絶えず、新井白石は重秀の罷免を3度も上申したと言われています。

白石の強い恨みを買っていた重秀は1712年に罷免され、白石は貨幣純度を元に戻すように主張し、正徳金銀を発行しました。そのため、今度はデフレが発生し経済は混乱しました。

家宣も前代と同じく文治政治を推進しました。外交面では琉球や李氏朝鮮との外交を進め、内政面では新井白石起草による宝永令の発布などをしました。この後の7代将軍・家継と家宣の政治は「正徳の治」と呼ばれ、儒学思想を基に文治主義と呼ばれる諸政策を推進しました。

7代将軍・家継

家宣は将軍就任3年にして倒れ、51歳で亡くなりました。後を継いだのは家宣の4男・僅か4歳の徳川家継。政治は引き続き新井白石らが主導で行われる側近政治を行うことになりました。

家継は、間部詮房・新井白石と共に正徳の改革を続行しました。

幕政は側近が行い、幼い家継は白石により帝王学の教育を受け、その才覚の片鱗を見せ始めていました。しかし、1716年、家継は8歳、満年齢では7歳に満たない年で亡くなりました。

徳川直系の血筋はここで途絶えてしまいました。

まとめ

初代から3代までの間に行われた武断政治のおかげで、徳川幕府の力は盤石なものとなりました。改易、取り潰し、転封と諸大名に対して行った仕打ちは、確実に諸大名の力を削ぎ、徳川への畏怖の念を高めたのです。

しかし、それによって浪人が溢れ、治安が悪化し、諸大名と領民の貧困を招きました。それによる一揆が多発し、農村が荒れることになりました。

4代から7代までの文治政治時代では、武断政治の名残りとも言えるこの悪循環を改善し、財政を立て直すことは困難でした。

徳川直系の血筋も途絶え、これ以降は親藩の御三家や御三卿から将軍が選出されてきます。切れ者と名高い徳川吉宗が8代将軍となり、享保の改革などで、財政難改善を目指していくことになるのです。

次回は、8代将軍吉宗から12代家宣まで、改革が行われて来た時代について考えてみましょう。

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