文治政治を作り上げていた時代は、元禄文化という文芸・芸能の素晴らしい作品が世に出てきた、非常に華やかな時代でした。

しかし、長崎だけとは言え海外との貿易で日本の金銀は大量に海外に流出していきました。

気づいた時には、銀は国内にあった4分の3もの量が流出していった後だったのです。

深刻な財政難に陥った幕府は、様々な対策を考えますが、実を結びません。

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そこで、新しく将軍になった紀州家の吉宗の出番です。

この改革期には、吉宗の行った改革をもとにして「江戸の3大改革」と呼ばれる改革がなされています。

8代将軍・吉宗

8代将軍となったのは徳川御三家の紀州藩第5代藩主を務めていた徳川吉宗でした。

吉宗は2代紀州藩主の4男として生まれましたが、兄たちが次々と亡くなり22歳で紀州藩の藩主につきました。そこで財政再建に成功し名君と呼ばれていたのです。

他にも有力候補はいたのですが、6代家宣の正室・天英院や7代家継の生母・月光院など大奥からの支持と側近政治に反感を持つ者たちから支持され将軍の座に就くことになりました。

今までの将軍は、就任と同時に藩主として務めていた藩を廃藩・絶家としていたのですが、吉宗は紀州藩を廃藩とはせず、従兄の徳川宗直に家督を譲り、紀州藩を存続させています。

江戸城に入るにも、お気に入りの藩士を選んで連れてきたのではなく、紀州藩士のうちからたまたまその日当番だったもの40名をそのまま側役として従えて入城しました。

このような措置は、側近政治に不満を抱いていた譜代大名や旗本から好感を持たれたのです。

将軍に就任した吉宗が行ったことは、6代家宣の代からの側用人であった間部詮房や新井白石を罷免することでした。

本家ではない吉宗の指導力確立のため、紀州藩の人材を幕臣として多く登用しました。

江戸の都市政策として、新たに紀州藩士による御庭番を創設しました。

将軍から直接命を受け秘密裏に諜報活動を行う部隊です。

江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方に赴き情勢を視察したりしていました。

また、庶民の要求や不満の声を聞くために目安箱を設置しました。

さらに、南町奉行の大岡忠相が主導し、町奉行所や町役人の機構改革。

町火消し組合を創設し防火建築の奨励や火除地を設定して防火対策を行いました。

町代の廃止や町名主の減員等の町政改革、米や物価の安定政策、貨幣政策、貧病民救済を目的とした小石川養生所の設置などの改革を行いました。

私娼や賭事、心中などの風俗取締りや出版統制なども行われました。

倹約と増税による財政再建を目指し、様々な改革を行う一方で、治水工事や新田開発、飢饉対策として甘藷(さつまいも)の栽培研究や、朝鮮人参や菜種油などの商品作物の育成を奨励しました。

吉宗が行ったこれらの改革を「享保の改革」といい、後年に享保の改革に倣って行われた寛政の改革や天保の改革、これら3つを指して「江戸時代の3大改革」と呼ばれています。

しかし、これらの政策は農民に多大な負担を課し、貧困を招き、また、冷夏と害虫により享保の大飢饉が起こり、打ち壊しなどの百姓一揆が頻発するようになりました。

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9代将軍・家重

1745年、吉宗は隠居し、嫡男の家重が9代将軍となりました。

しかし家重は生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥で多くの時間を過ごしていました。

吉宗は隠居したものの1751年、自身が亡くなるまで大御所として実権を握り続けていました。

9代・家重の時代は、享保の改革による増税策で、農民の不満が爆発し、百姓一揆が続発していました。

郡上藩で起こった郡上一揆では、逼迫していた藩財政を改善させるため、これまでの定免法から検見法に改め、さらに農民が新たに開発していた切添田畑を洗い出して課税をしたため、農民の不満が爆発し大規模な一揆が勃発しました。

一時期は藩側の弾圧や懐柔によって一揆側が弱体化したのですが、老中への駕籠訴えが成功し、幕府法廷で審理されることになりました。

しかし、それも中断し一揆側は目安箱への箱訴が行われました。

これにより、家重は幕府中枢部の関与を疑い、田沼意次に事態の解決を任せました。

すると、老中・若年寄・大目付・勘定奉行らが処罰される結果になり、郡上藩と相良藩の2藩が改易となりました。

また、薩摩藩に対して手伝普請として洪水が多発していた木曽三川の治水工事を命じました。

幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足や資材の手配をしていました。

地元の村方を救済する目的のため、町人請負ではなく村請けにして、地元が潤うような方針を取っています。

当時、借入金が66万両もあったにも関わらず、幕府からの工事普請の知らせを受けた薩摩藩は、幕府のあからさまな嫌がらせとも取れるこの沙汰に、「幕府と一戦交えるべき」との強硬論も出たのですが、財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、手伝普請を行うことにしました。

しかし、工事中に建設中の堤が破壊される事件が3度も起こり、その指揮を取っていたのが幕府の役人であるとわかると抗議のため堤を管理していた薩摩藩士2名が自害しました。それ以降61名が自害を図るという事態になりました。また、過酷な重労働であったにも関わらず一汁一菜という粗末な食事しか与えなかったため、体力が弱っていたものが多く、赤痢の流行に繋がりました。

これにより157名が罹患し、32名が病死しました。

工事終了後に薩摩藩総指揮である家老も自害するという「宝暦治水事件」が起こりました。

家重の健康が害されると言語不明瞭がますます進み、言葉を聞き分けることができる者が側近の大岡忠光だけになってしまいました。

そのため、家重は忠光を側用人とし重用するようになりました。

1760年、忠光が亡くなると家重は長男・家治に将軍職を譲り、大御所となりましたが、翌年1761年、大名に取り立てられていた田沼意次を重用するようにと家治に遺言を残し、死去しました。

10代将軍・家治

家重が隠居し、後を継いで10代将軍となった家治は、祖父である8代・吉宗の期待を一身に背負った幼少時から聡明な人でした。

吉宗は亡くなる前まで家治に帝王学を教え、家治に付けた小姓にも自らが養育を施すなどをし、後継者体制を万全なものとしていました。

家重が亡くなり、遺言通りに田沼意次を側用人とした家治は、老中・松平武元らと政治に励みました。しかし、武元が亡くなり老中に意次を据えた家治は、幕政を意次に任せ、次第に趣味の世界に没頭するようになりました。

家治に幕政を任された田沼意次は、これまでの重農主義から重商主義的政策に変換していきました。

同業者組合である株仲間(問屋が一種の座を作り、カルテルを形成すること)を奨励しました。

商人に専売制などの特権を与えて保護し、運上金や冥加金(営業などの免許の代償として幕府や藩に支払われた租税の一種)を徴収しました。財政支出の補填のために、新貨(五匁銀・南鐐二朱銀)の鋳造や貨幣の統一などを行い、通貨制度の安定を図っています。

殖産興業として町人資本による印旛沼・手賀沼の開拓、及び農地の開拓を行うなどの、商業資本を重視した経済政策を行いました。

外交政策として、新井白石が定めた海舶互市新令を緩和し、鎖国政策を緩めて長崎貿易を奨励しました。

俵物(煎りなまこ・いりこ・干鮑・フカヒレなどの海山物の干物)などを商品作物として中国(清)への輸出を拡大しました。

このような政策により幕府の財政は改善に向かい、景気も良くなってきました。

しかし、商品経済の発展により金銭中心の生活となり、役人たちの間で贈収賄が横行しました。

民は利の薄い農業を放棄し、都市部に民が集まるようになり、農村が荒れるという事態も起こり始めました。

さらに、水害のために開拓を進めていた印旛沼運河工事が洪水により失敗、明和の大火・浅間山の噴火などの災害が発生し荒れ始めていた農村に天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が発生しました。これにより米価は高騰し、財政難に陥っていた諸藩はこの機会に借金返済を、として、農村への厳しい年貢の取り立てを始めました。

都市部では治安が悪化し、農村部でも一揆や打ち壊しなどが激化し始め、江戸の商人を重視する政策をしていた意次は、反田沼派に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に意次への批判が集まってきました。

蘭学を手厚く保護し、士農工商などの身分にとらわれない実力主義の人材登用を試みるなどの急激な改革を推し進めようとしていた意次は、身分制度や朱子学を重視していた保守的な幕閣らに反発され、1784年、意次の嫡男で若年寄だった田沼意知を暗殺されてしまいました。

これを契機に意次は失脚し、1786年、後ろ盾であった10代将軍・家治が死去すると老中を解任され雁間詰めに降格、2万石の領地を没収の上、大阪蔵屋敷の財産没収に加え、江戸屋敷の明け渡しも命じられてしまいました。

度重なる減転封の上、嫡男・意知の子で意次の孫にあたる龍助がかろうじて陸奥1万石で家督を継ぐことを許されました。

幕政を信頼する田沼意次に任せ自身は趣味に没頭していた家治は、後世には暗君と呼ばれることになります。

しかし一方では田沼意次を重用したその事自体が英断として高く評価する意見もあります。確かに、家治の後見なくしては意次の大胆な重商主義政策は成し得なかったでしょう。

家治は趣味の将棋においてはその才を発揮し特に詰将棋の作成では優れた作品を後世に残しています。

11代将軍・家斉

10代・家治の嫡男が18歳(満16歳)で急死したため、御三卿の1つ、一橋家の家斉が家治の養嗣子となりました。家治が50歳で急死したため、家斉は15歳の若さで11代将軍に就任することになりました。

11代将軍に就任した徳川家斉は、家治時代に権勢を振るっていた田沼意次を罷免し、陸奥白河藩主で飢饉対策に成功し、名君の誉れ高い松平定信を老中首座に任命しまいた。

松平定信は8代・吉宗の孫にあたり、家斉とともに将軍の後継候補と目されていた定信を家斉が成長するまでの繋ぎにしようと御三家が意図したものでした。

定信は、寛政の改革を主導し、積極的に財政の立て直しを行いました。

緊縮財政政策、風紀の取締り、田沼意次が保護した蘭学を否定し、身分制度の改定を行いました。さらに、人足寄場(江戸幕府が設置した軽罪人の自立支援施設)の設置などの新規政策を行いました。

6年にも及ぶ改革でしたが、役人だけでなく庶民にも厳しい倹約を強要し、極端な思想統制令により経済、文化は停滞しました。

この寛政の改革は余りにも厳格すぎたため、次第に家斉や幕府上層部から批判が起こるようになり、定信は家斉と対立するようになりました。

1793年、家斉は実父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わりました。

その後、老中首座についた松平信明は、定信が登用した戸田氏教や本多忠籌ら寛政の遺老と呼ばれた老中たちと定信の政策を継続していきます。

1817年、信明が死去し、他の寛政の遺老たちも老齢のため辞職すると、家斉は側用人の水野忠成を老中首座に就けました。

すると忠成は定信らが厳しく禁止していた贈収賄を奨励し、家斉も宿老たちがいなくなったのをいいことに度を過ぎた贅沢をするようになりました。

そのため、田沼時代に蓄えた幕府財政を逼迫させる事態となりました。

さらに、近海に外国船を見つけたら攻撃するという異国船打払令を発布するなどして、外国船対策の諸費用がかさむようになり幕府財政が破綻することになったのです。

家斉の贅沢は幕府から大量の金銀を流出させましたが、その分市井が潤い、化政文化が広まることになりました。

1834年、水野忠成が死去すると、後任には水野忠邦が任じられました。しかし、実際の幕政は家斉の側近が行い、幕政は腐敗の一歩を辿ることになりました。次第に、幕府に対する不満が噴出し始め、1837年、大塩平八郎の乱が起こり、さらに生田万の乱も起こり、幕府体制が崩壊し始めてきたのです。

1837年、次男・家慶に将軍職を譲ったものの、家斉は大御所として政治の実権を握り続けました。

1841年、家斉が死去すると、老中首座であった水野忠邦により側近政治は否定され、数人の旗本・若年寄らが罷免されることになりました。

12代将軍・家慶

父・家斉は将軍職を50年も務めたため、家慶が将軍職についたのは45歳の時でした。将軍になっても家斉が大御所として4年もの間、強大な発言権を持っていたため、家斉が亡くなるまで実権を握ることはできませんでした。

家慶は、老中首座の水野忠邦を重用し、重農主義を基本とした天保の改革を行わせました。

まずは、家斉大御所時代に頽廃した幕府高官を罷免し、人事の刷新を行いました。

さらに、家斉時代の贅沢を徹底的に取締り、緊縮財政政策を行いました。綱紀粛正とともに奢侈禁止を命じたのですが、大奥から多大な抵抗にあい、大奥については改革の対象外としています。

経済政策として、都市部にいる農民を農村に返すという人返し令、株仲間の解散、上知令(上地令)、金利政策、貨幣の改鋳などを行いましたが、これがことごとく失敗し、社会に混乱が生じました。

結果、水野忠邦は失脚し、天保の改革は途中で頓挫することとなりました。

これらの政策が、幕府の権威が失墜する以前の武断政治の頃であれば、成功していたのかもしれませんが、幕政の腐敗による不満が噴出し、幕府の権力が弱まっているこの時代では全く通用しなかったのです。

この時期、諸藩も藩の財政を立て直すために改革を行っているのですが、長州藩や薩摩藩はそれぞれ国情に応じた改革に成功し、藩の財政は改善され幕末には雄藩と言われる程の力をつけることができたのです。

その後、家慶は土井利位、阿部正弘、筒井正憲らに政治を委ね、自らは薩摩藩のお家騒動・お由羅騒動に介入し、藩主・島津斉興を隠居させ、さらに、水戸藩主・徳川斉昭に隠居謹慎を命じました。また、斉昭の7男・七郎麻呂(後の徳川慶喜)が一橋徳川家を相続させるよう幕命を出しています。

1853年、黒船が来航し、幕閣がその対応に追われる中、家慶は亡くなりました。

まとめ

幕府の財政難を改善するために、様々な改革が行われました。

この時期は、コメの経済からゼニの経済へと変化する時代でした。

コメを貨幣替わりにしていた時代は徐々に貨幣重視の時代となり、その混乱から領民の貧困、貧富の差などが生まれ、大規模な一揆が勃発するなどの悪循環が起こったのです。

田沼時代には、この重商主義の経済を積極的に行い、大商人と結んで経済発展の成果を得ようとしていましたが、商人との癒着、天明の大飢饉の発生などにより田沼意次は失脚。

田沼の政治を批判した松平定信は、質素倹約を強調し、庶民の娯楽なども制限し、その厳しすぎる取締りに田沼時代を懐かしむ声も聞こえるようになってきました。

この時期、流行した落首に有名なものが2首あります。

定信就任当初は、

  • 田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水

そして、厳しすぎる改革後は

  • 白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき

その後の時代は化政時代として一見平和でしたが、幕府の腐敗が進み、権威が失墜していくことになります。

さらに、海外からの圧力、脅威にあい、その対応に惑います。

幕府の対応に不満が生まれ、幕府権力が急速に減退していく激動の時代が始まります。

次は、海外への対応を巡り、幕府と諸藩の争い、朝廷と幕府の関係などを考える幕末期を考えてみたいと思います。

「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その10 幕末。幕末年表と諸外国の動き)。