「幕末」というといつからいつのことを指すと思いますか?

「幕末」とは、読んで字のごとく幕府の末期。江戸幕府が政権を握っていた時代の末期を表します。

いろいろな説はありますが、1853年の黒船来航から戊辰戦争が終わる1869年までの期間を「幕末」と定義することが多いようです。

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徳川将軍家で言うと、12代家慶が亡くなり、13代家定~15代慶喜までの期間です。

これまで徳川将軍家の動きを中心に見てきましたが、この幕末という時代は、様々な思想を持つグループが同時に動いてきます。将軍家の動き、幕府の動き、そして朝廷・倒幕派の動きです。

この16年という短い期間の間に、数多くの事件が発生します。

事件の概要を軸に将軍家、幕府、倒幕派の動きを見てみたいと思います。

簡単な幕末年表

まずは、幕末の簡単な年表を見てみましょう。

1853年 7月 黒船来航
1854年 3月 日米和親条約調印
1856年 8月 初代アメリカ総領事ハリスが下田に着任
1858年 4月 井伊直弼大老に就任
1858年 7月 日米修好通商条約調印
1858年 8月 安政の大獄
1858年 8月 13代将軍徳川家定、死去
1858年11月 徳川家茂、14代将軍に就任
1860年 3月 桜田門外の変
1862年 2月 坂下門外の変
1862年 3月 皇女和宮降嫁
1862年 5月 寺田屋事件
1862年 9月 生麦事件
1863年 3月 浪士組結成(後の新選組)
1863年 9月 八月十八日の政変
1864年 7月 池田屋事件
1864年 8月 禁門の変
1864年12月 第1次長州征伐
1865年 4月 第2次長州征伐の勅許
1866年 3月 薩長同盟
1866年 7月 第2次長州征伐
1867年 1月 徳川慶喜、15代征夷大将軍に就任
1867年11月 大政奉還
1868年 1月 王政復古の大号令
1868年 1月 戊辰戦争開始(鳥羽伏見の戦い)
1868年 3月 五か条の御誓文発布
1868年 5月 江戸城無血開城
1869年 6月 戊辰戦争終結

16年の間にたくさんの出来事が起こりました。

この流れに沿って考えてみようと思いますが、その前に、日本の脅威となり倒幕運動のきっかけとなった世界の動きを見てみましょう。

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幕末の諸外国の動き

1770年代後半から、ロシア船の来航が急増してきました。

当時の欧米はイギリスの産業革命の影響で大きく変化してきた時代でした。

この革命により欧米諸国の工業化が進みました。そのため、欧米の諸国は他国の市場や原料の供給のために植民地を求めて動き始めました。

フランスではフランス革命が起こり、ナポレオンが登場してきた時代です。

ロシアは極東の経営に取り組もうと、長崎を訪れ通商の要求をするのですが、この時、幕府はこれを拒否しています。

これを受けたロシアは武力でもって開国を迫ろうと樺太や択捉島など、北方における日本側の拠点を攻撃しました。

圧倒的な火器を前に日本側は苦戦しました。北方諸藩(松前藩・津軽藩・南部藩・庄内藩・久保田藩)は蝦夷地要所の警備を強めました。

これらロシアの軍事行動は、ロシア皇帝の許可を得ておらず、1808年、ロシア軍には全軍撤退命令が下されるのですが、幕府側の被害は甚大なものでした。

この時代は11代将軍・家斉の時代。

これらの事件により幕府は外国への脅威を感じ、鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めることになりました。

1808年、蝦夷地での攻防の少し後、長崎港でイギリスの軍艦が侵入するという事件が起こりました。フェートン号事件です。

通商を許可されているオランダ国旗を掲げ、オランダ船と偽って長崎港に入港したイギリス船フェートン号は、オランダ商館員を人質に取り水や食料を要求するという事件を起こしました。

長崎奉行を務めていた松平康英はこの事態に守備兵を配置しようとするのですが、長崎警備当番であった鍋島藩が太平に慣れて、経費削減のため、無断で守備兵を減らしていたので、本来の駐在兵力の10分の1ほどの兵力しかいない状況になっていました。

そのため、急きょ薩摩藩や熊本藩、久留米藩や大村藩に出兵の応援を頼むことになったのです。

結局、人質を取られ満足な兵力もない状態ではイギリス船の要求を飲むしかなく、十分な兵力が整った時にはフェートン号は長崎港から出港していました。

この事件後もイギリス船の出現は増え続け、1824年、水戸藩大津浜にイギリス人12人が上陸するという大津浜事件が起こりました。

日本近海での捕鯨が盛んになっていた欧米各国は、フェートン号事件の後、頻繁に日本近海に姿を見せるようになっていました。

1824年、水戸藩内大津浜に現れたイギリス人12人は、付家老中山備前守の役人に捕らえられ尋問を受けました。船内に壊血病(ビタミン不足で起こる出血性の病気)者がいるため、新鮮な野菜や水を補給するための上陸だったと分かり、水戸藩はこれを与えてイギリス人船員を船に返しました。

水戸学の学者であった藤田幽谷門下の学者は、この対応を生ぬるいとして幕府を批難しました。

水戸学とは、水戸藩で形成された政治思想の学問で、儒学を中心に国学・史学・神道を統合させたものです。

愛民・敬天愛人などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとする幕末の志士らに大きな影響を与えました。

大津浜事件をきっかけに、水戸藩では攘夷思想が広まることになり、事件の翌年には会沢正志斎が尊皇攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を発表しました。

これより水戸藩は、尊皇攘夷思想の強い藩となっていくのです。

イギリス船は1824年、薩摩藩直轄領である鹿児島の宝島近海にも現れ上陸し、島民に牛を譲渡するように要求しました。しかし、在番・郡司が拒否したため、イギリス人は20~30名が島に上陸し、牛を強奪するという事件が起こしました。イギリス人が番所に鉄砲を打ち掛け、本船から大砲を撃つという狼藉をしたため、目付け役だった吉村九郎はイギリス人1名を鉄砲で射殺。それにより、残ったイギリス人は本船へ戻り逃げ去りました。宝島事件です。

これらの事件が要因となり、1825年、異国船打ち払い令が発布されることになったのです。

この他にも、水戸の領民が数年前から沖合で操業している捕鯨船の乗組員と物々交換を行っていたことが発覚、取調べを受けるなどの事件も起こりました。

幕府は、外国人からの脅威と日本の情報が海外に流出することを恐れ、民衆と西洋人との関わりを断ち切ることを目的に、この外国船打払令を発令したのです。

1837年、12代将軍・家慶の時代、モリソン号事件が起こりました。

日本人漂流民ら7人を乗せたアメリカ商船モリソン号が、日本人漂流民の送還と通商・布教目的で鹿児島湾浦賀沖に現れると、薩摩藩及び浦賀奉行は異国船打払令に基づき砲撃を行いました。

モリソン号が商船で非武装だったことや、日本人漂流民の送還が目的だったとわかると、異国船打払令に対する批判が強まりました。

後に幕府を批判する「慎機論」を著した渡辺崋山や、「戊戌夢物語」を著した高野長英が逮捕されるという事件が起こりました。(蛮社の獄)

1842年、イギリスと清との間で起こったアヘン戦争において、清が敗北し、南京条約が締結されました。

この条約により清は香港の一部をイギリスに割譲し、開国することになりました。

この報を聞いた幕府は、薪水給与令(日本にたどり着いた外国船に食料や燃料を与える法律)を発布し、モリソン号事件で批判が高まっていた外国船打ち払い令を緩和させました。

1844年、このような状況の中、オランダ国王が直筆の手紙を幕府に送り、開国を求めてきましたが、幕府は拒否し、鎖国の体制を守っています。

この頃、アメリカは清との貿易が活発になり、燃料の補給や捕鯨船が寄るための港として日本に目をつけていました。

1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官・ビドルが浦賀にきて貿易を要求しましたが、浦賀奉行は拒否しました。

そして、1853年、アメリカから東インド艦隊司令長官ペリーが派遣されてきます。

まとめ

鎖国と称して清やオランダ、琉球という限られた国としか貿易をしてこなかった日本は、欧米列強からの通商要求に戸惑い、対応に苦慮するようになりました。

異国人による事件も多発し、幕府の対外政策は揺れ動きます。

鉄砲や大砲などの圧倒的な軍事力を持つ欧米列強の砲艦外交を受けた日本は、異国を排除すべしという攘夷思想と、戦っても勝てないから開国するしかない、という開国派にわかれていきます。

次回は、マシュー・ペリーの黒船来航について考えてみたいと思います。

「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その11 幕末。黒船来航と将軍後継問題)。