イギリスの産業革命に伴い、欧米諸国の動きが激しくなってきました。

日本近海にも欧米の船の姿が頻繁に見られるようになり、様々なトラブルも起こり始めてきました。

頑なに鎖国を続ける日本に対し、外交があったオランダ国王は1844年に幕府に世界情勢を説き開国を進言するのですが、幕府はこの進言を退けています。

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その後、開国・通商を要求してくる異国人たちを排斥しようとする攘夷派と外国の軍事力との差を認識し、開国もやむなしとする開国派と分かれていきます。

しかし、その対応を担うはずの幕府は将軍が病床にあるために、幕閣も対応に苦慮することになります。

黒船来航に伴う幕府の動き、その真っ最中に起こった将軍後継問題を考えてみましょう。

黒船来航

1853年7月、アメリカ・東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の艦隊を携えて浦賀沖に現れました。

ペリーが率いてきた船は、それまで訪れていたロシアやイギリスの帆船とは違うものでした。

黒塗の船体、帆の他に外輪と蒸気機関も備えており、帆船を1艦ずつ曳航し、煙突からもうもうと煙を上げるその姿を見た日本人は、「黒船」と呼びました。

4隻からなる艦隊には73門の大砲があり、日本側からの襲撃に備え、臨戦態勢をとっていました。

黒船が、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令、合図を目的とした空砲を発射すると、江戸は大混乱になりました。この空砲発射は事前に通告があったのですが、この砲撃は領民に凄まじい衝撃を与えました。

やがて空砲だとわかると、町民は花火感覚で喜ぶようになったと伝えられています。

7月9日、幕府から浦賀奉行所与力の中島三郎助がペリーのもとに派遣されましたが、ペリーはアメリカ合衆国大統領の親書を渡すには与力では階級が低すぎると親書を預けることを拒否しました。

次に、浦賀奉行と偽りペリーのもとを訪れた浦賀奉行所与力の香山も、親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して上陸し、兵とともに将軍に直接渡す、と脅され拒否されてしまいました。

この会見の後、ペリーは、武装した兵を乗せた短艇で浦賀湾内の測量を行い、幕府に圧力をかけました。

この行動の裏には、高い軍事力を示し江戸を目指す態度を取れば、幕府は恐怖し、アメリカにとって都合の良い返答を与えるだろうとの目論見がありました。

この時、12代家慶は病床にあり、これに対応できる状態ではありませんでした。

老中首座・阿部正弘は国書を受け取るために、ペリー一行の久里浜上陸を許し、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道が会見に臨みました。

この会見で幕府は国書を受け取りますが、将軍が病床のため決定できないとし、返答に1年の猶予を要求しました。

ペリーは1年後再来航するとして、イギリスの植民地である香港に戻りました。

12代・家慶はペリー来航のすぐ後に亡くなり、13代・家定が将軍となりました。

父・家慶は14男13女と子沢山だったのですが、その殆どが早世し20歳を超えて生きたのは、家定だけでした。家定自身も病弱であり、子もいなかったため将軍就任時には既に後継者を決める争いが起こっていました。

家慶は、家定の将軍としての器量を心配しており、聡明と名高かった一橋家の慶喜を将軍の後継として考えていました。しかし、老中・阿部正弘の反対にあい家定を将軍後継と定めたのです。

家定が将軍に就任すると、元々悪かった体調はさらに悪化し、幕政は引き続き老中首座・阿部正弘主導で行われることになりました。

ペリーの帰国後、対応に窮した阿部正弘はこれまでの慣例を破りこの一件を朝廷に報告し、諸大名の意見を広く求めました。

また、対外問題処理係である海防掛参与に前水戸藩主の徳川斉昭を任命しました。

諸大名に意見を聞くという行為は、幕府の権威を落とすことになり、諸大名の幕政参加、雄藩の発言力の強化及び、朝廷の権威の強化に繋がりました。

それでも有益な政策を見いだせず、半年後に再来したペリーは、重ねて開国を要求しました。

1854年3月31日、日米和親条約が締結されることになりました。

この条約の内容は、下田、函館2港の開港と、領事の駐在、アメリカに対する最恵国待遇の付与です。

この頃、上海には列強各国の艦隊が寄港していました。

ペリーが日本を開国させたという情報は西欧列強に知られることになり、同年イギリスやロシアも長崎を訪れ、幕府は同様の条約をイギリス、ロシア、オランダと結ぶことになったのです。

1854年10月14日に日英和親条約が締結。

1855年2月7日にロシア帝国のプチャーチンとの交渉で日露和親条約締結。

1856年1月30日には日蘭和親条約が締結されました。

これらにより、3代・家光より約200年も続いていた「鎖国」体制は終わりました。

諸外国との国交を樹立した幕府は、体制再編のため幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行いました。

これらの改革は安政の改革と呼ばれ、幕末期活躍した勝海舟もこの改革から頭角を現してきました。

阿部正弘は、幕府に提出させた上書の中で蘭学と軍学を学んだ勝海舟を見出し、1855年、勝海舟を異国応接掛附蘭書翻訳御用に抜擢、後に長崎海軍伝習所を創設させました。

条約締結に反対し、攘夷を主張していた斉昭は、条約締結後に海防掛参与を辞任しています。

1857年、阿部正弘が死去すると、老中首座には名実ともに、堀田正睦が就任しました。

阿部正弘存命中は、老中首座とは名ばかりで、実権は阿部正弘が握っていたのです。

1858年、アメリカ総領事のハリスから日米修好通商条約の調印を求められると、堀田正睦は朝廷の勅許を求めて上洛することになりました。

しかし、強硬な攘夷論者であった孝明天皇からの勅許は得られず、攘夷派公卿たちから条約締結に反対し、抗議の座り込みをする廷臣八十八卿列参事件を起こされ、手ぶらで帰らざるを得ませんでした。

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将軍後継問題

同年、家定が病に倒れ、将軍後継問題で、一橋派と南紀派が衝突することになりました。

家定には正室として鷹司政煕の娘・任子や一条忠良の娘・秀子などがいたのですが、いずれも若くして亡くなっています。

近衛忠熙の養女・敬子(篤姫・天璋院)との間にも子は生まれませんでした。

将軍就任後、家定の病状はさらに悪化し、もはや子は望めないようになっていました。

家定の後継者として譜代筆頭の井伊家当主・井伊直弼ら南紀派は血筋が近いという理由で紀州藩主の徳川慶福を推していました。

しかし、薩摩藩主の島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派は一橋慶喜を推していました。

それというのも、海外からの使者への対応に大変苦慮していたため、この難局を乗り切るためには聡明と名高い一橋慶喜が将軍となった方が良いとの判断だったのです。

この争いに終止符を打ったのは、家定でした。

彦根藩主の井伊直弼を大老に据え、6月に家定の名で慶福が後継ぎとなることが発表されました。病弱であったため、表舞台にはほとんど出てこなかった家定でしたが、一橋派の諸大名の処分を発表するなどの行動を見せました。

家定、最初で最後の将軍らしい行動だったと言われています。

7月に35歳で家定が亡くなると、慶福は「家茂」と改名。13歳で14代目の将軍職を受け継いだのです。

まとめ

黒船来航直後に12代将軍・家慶が亡くなり13代将軍に家定が就任しました。

しかし、就任したばかりの将軍も病弱で、次世代に子供を残すことも危ぶまれ、後継問題が発生し、南紀派と一橋派とに分裂することになりました。

政治の中心となるべき将軍が、政治に関わることが難しい状態で列強諸国からの圧力を受けた幕閣は、欧米列強の軍事的圧力に屈し、開国することになりました。

しかしそれは、外敵を排除したい攘夷派と開国派との対立を深める結果となりました。

幕府の権威が失墜し、雄藩の発言力が強まる中、アメリカとの通商条約締結をめぐってさらなる問題が起こります。

次回は日米修好通商条約にまつわる事柄を考えてみたいと思います。

「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その12 幕末。日米修好通商条約)。