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西郷どん。黒船来航とマシュー・ペリー提督が派遣された理由と開国。

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浮世絵や歌舞伎が大衆にも広まった化政文化の後。西洋の文化が入り始め、各藩が西洋式の大砲を作り、西洋の種痘などの治療も始まった頃の1853年。アメリカ合衆国の船4隻が浦賀に現れ、開国を要求しました。

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日本国内は庶民から幕府まで、上に下にの大騒ぎとなります。日本中をびっくりさせた”黒船”とは、どういった経緯で日本に来たのか、ちょっと調べてみました。

目次

ペリー提督

まず、船舶団の代表者だったマシュー・ペリーとはどのような人物だったのでしょうか?

1794年アメリカのロードアイランド州で生まれ、父親は海軍私掠船長でした。私掠船とは海軍公認の海賊で、外国船の略奪のみ許可されていました。ペリーは14歳で海軍に入隊、海軍工廠(造船所)の所長を経て同工廠の司令官に。さらにメキシコとの戦争に参加し、52歳で本国艦隊の司令官に昇進します。そして日本に来る1年前の1852年に東インド艦隊司令官に就任、大統領に日本開国の交渉を任されました。

派遣された理由

当時、西ヨーロッパ各国は産業革命を迎え、大量生産された工業品の輸出先を探していました。それは熾烈な植民地獲得競争に発展します。アメリカはインドや東南アジアに拠点を持たず、一歩遅れた形でした。

さらに欧米各国は、ランプの灯火や工場機械の潤滑油として、マッコウクジラの鯨油を大量に必要としていました。捕鯨船は何ヶ月、時には何年間も航海をしますので、日常の煮炊きに必要な薪や水・食料をどこかで補給する必要があります。

アジア進出のため、そして捕鯨のための薪・水の補給地点確保のためにも、アメリカは日本と貿易ができる関係になる必要があったのです。

実は、アメリカから使節として来日したのは、ペリーが初めてではありませんでした。東インド艦隊司令官のビッドルという人物が、1846年に浦賀に来て、幕府と通商条約を結ぼうと交渉していたのです。ペリーがくる7年前でした。ビッドルは武力には訴えないという基本姿勢で幕府と交渉しました。幕府は薪や水・食料の供給には対応するが、貿易はできないという返答。ビッドルは引き返します。

その2年後に、海軍のグリンという軍人が長崎を訪れています。難破したアメリカ人の船員が長崎の牢に捕らえられていたため、それを解放する交渉でした。武力をちらつかせての強引な交渉術で、無事にアメリカ人を帰国させることができました。

ペリーは開国交渉の任務が与えられる1年以上前からシーボルトの著書などで日本を研究、以前の交渉を確認します。そして独自の計画を立て、海軍長官に提出しました。計画には、次のようなことが盛り込まれていました、

  • 軍事力を誇示するため、4隻の軍艦で向かう。
  • 友好的な交渉ではなく、恐怖に訴える交渉に利点がある。
  • 長崎ではオランダの妨害が入る可能性が高いため、浦賀で交渉を行う。

4隻の船

ペリーは軍事力を見せつけるために、東インド艦隊所属のサスケハナ、ポーハタンという蒸気船と、サラトガ、プリマスという帆船の4隻で日本に向かいます。

サスケハナ、ポーハタンは外輪式蒸気機関と帆走を併用した船で、船体中央に煙突を1本持っていました。木製で、腐食防止のために黒くタールで塗られていました。満載排水量は“サスケハナ”が3,824トンで長さ78メートル、“ミシシッピ”が3,220トンで長さ77メートルでした。両方共9門の大砲を搭載。サラトガ、プリマスはそれより小型の帆船でした。

当時の日本には、大きくても千石船という排水量200トン程度の船しかありませんでした。突如あらわれた20倍近い大きさの真っ黒な船は、見た人に恐怖を与えたことだと思います。現代日本では小型の護衛艦でも100メートル以上ありますが、当時としては77メートルの船は、欧米でも最大クラスの巨艦でした。

航路

アメリカから来たというのだから、太平洋を渡ってきたと思っている人も多いですが、彼らは大西洋を回って東シナ海からやってきました。ペリーは東インド艦隊所属ですし、当時は太平洋横断の航路が未整備だったのです。

ペリー一行は、浦賀に向かう途中で沖縄を訪れています。4度も寄港し、水・食料・薪の供給や遭難船の救助などを含む、琉米修好条約を結びました。

日本との交渉

1853年7月8日にペリーの艦隊4隻は浦賀沖に現れ、停泊します。これまでも何隻か日本の海に外国の帆船は来ていましたが、サスケハナとミシシッピは最新鋭で最大級の蒸気船。黒い煙を吐きながら進む真っ黒な姿は全く異質で、人々は恐怖と共に好奇心を持ち、浦賀には見物人が溢れかえったそうです。

幕府は翌日、ペリーのいる船に浦和奉行所の与力を派遣。しかしペリーは最高位の役人をだすようにと突っぱねます。結局、老中・阿部正弘はペリー一行の上陸を許可し、久里浜にて浦賀奉行が大統領親書を受け取ります。将軍・徳川家慶が病気のため、1年後に返事をするという回答をします。ペリー艦隊は3日後、江戸湾深くまで北上して江戸の港を確認しつつ威圧、浦賀を離れます。その後、琉球を経由して香港に戻っていきました。

その10日後、将軍は病死。徳川家定が将軍になります。ペリーですが、約束通り1年後にくるかと思えば、すぐ半年後に江戸にやってきました。今度は計9隻の艦隊です。2度目の交渉は1ヶ月にも及び、幕府はアメリカ側の要求を受け入れ、日米和親条約を締結します。

ペリーのその後

ペリーは条約締結という大役を果たして帰国しますが、4年後に病死しています。せっかくアジアへの足がかりを手に入れたアメリカですが、南北戦争という内戦が始まり、それどころではなくなってしまいました。そのせいか、意外にもペリーはアメリカでは無名の存在なのでした。

まとめ

アメリカから開国の交渉に来たのは、実はペリーが初めてではありませんでした。ペリーはそれらの失敗交渉などを参考にし、綿密な作戦を練ってから日本にきたのでした。

また、アジアへ影響力を与えるために日本との交渉を進めたアメリカですが、南北戦争に突入したために、植民地などの政策はうやむやに。

しかし日本はペリーによって開国した後、武士の政権が終わり明治維新が始まって近代化が始まり怒涛の歴史が流れていきます。

そしてアメリカではなく、イギリスやフランスなどの影響を多く受けることになります。


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