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「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その12 幕末。日米修好通商条約)。

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日米和親条約締結のため、日本初の総領事となったタウンゼント・ハリス。

彼は、当初からアメリカ大統領の命を受け日本との通商を目的としていました。

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しかし、幕府は通商には消極的で、ハリスの駐在も拒否しようとしていました。

水戸藩・徳川斉昭や薩摩藩・島津斉彬を始めとする攘夷派の動きも活発になり、開国派と攘夷派の対立も激しくなってきました。

不平等条約と呼ばれた「日米修好通商条約」を幕府が締結するまでの経緯とその影響を考えてみましょう。

目次

日米修好通商条約調印

日米和親条約により、日本初の総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスは、日本との通商条約締結を計画していました。

しかし、幕府は外国との通商には乗り気でなく、ハリスの下田駐在も拒絶しようとしていました。これは、日米和親条約は締結したものの、アメリカと日本とでは解釈に違いがあったためです。

それは、日米和親条約第11条の「両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日より18ヶ月経過した後に、米国政府は下田に領事を置く事ができる」の解釈の違いから起こったことでした。

日本文では「両国政府においてよんどころなき儀」があった場合と表現されていたのですが、英文では、「両国政府のいずれか一方がかかる処置を必要と認めた場合」と表現されていました。そのため、ハリスを送り込んできたのです。

ハリスの強硬な主張に押された幕府は、柿崎の玉泉寺を仮の宿所と定め駐在を許可したのです。

ハリスの目的は日本との通商条約の締結です。大統領親書を提出するために、江戸への出府を望むのですが、攘夷派の水戸藩・徳川斉昭らが反対し、ハリスの江戸出府は保留となっていました。

そんな中、1857年6月17日、ハリスは下田奉行井上清直と中村時万と了仙寺にて「下田協約(日米追加条約)」を結びました。これは、日米和親条約を修補する目的で結ばれたものです。

主な内容は

  1. 下田・函館開港の細則
  2. 外国人の居留地の権限
  3. 領事裁判権の承認
  4. 貨幣交換比率改定
  5. 長崎港の追加開港

などが締結されました。

ハリスの動きを敏感に感じ取った攘夷派で、水戸藩郷士・堀江芳之助や蓮田東藏、信田仁十郎らがハリスを暗殺するため襲撃を企てますが、事前に計画が発覚し、幕府に捕らえられてしまいました。

これ以降、攘夷派の動きは更に活発化し、外国人襲撃・殺害事件は頻繁に起こるようになっていきます。

あくまで江戸に出府して将軍に謁見したいハリスは、出府を留保され、国の宰相にすら会えないことに不満を持ち、「無礼不敬の極み」と幕府に抗議します。

ハリスに押された幕府は出府の準備を進めるのですが、徳川斉昭ら反対派への説得に時間がかかるとして、明確な時期をハリスに伝えてはいませんでした。

ハリスはこの決定を不服とし、1857年、下田に砲艦ポーツマス号を入港させました。

下田奉行は、ハリスが軍艦で江戸へ直航する恐れがあると幕府に報告しました。

下田奉行の急報を受けた幕府はついに、「使節の礼をもって出府・登城・謁見を許す」との旨を全国に布告したのです。

1857年12月、ハリスは江戸城に登城し将軍家定と謁見し国書を手渡しました。

幕府は、ハリスの強硬な主張に怯み、アメリカとの自由通商を行わざるを得ないような雰囲気になっていきました。

老中首座である堀田正睦は、下田奉行・井上清直と目付の岩瀬忠震を全権として、交渉が開始されました。

交渉は15回にも及び、ようやく交渉内容に対し双方の合意が得られたので、1858年3月、堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るため岩瀬忠震を伴い入京しました。

武家伝奏(武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を持つ)への取次の際、攘夷派である中野忠敬や岩倉具視らの中級・下級公家88人が条約締結に抗議し、座り込みを行うという廷臣八十八卿列参事件が起こりました。

強硬な攘夷派である孝明天皇も、対等な立場での異国との通商条約は従来の秩序に大きな変化をもたらすとして、通商条約締結に反対し、勅許を拒否。

堀田は勅許を得ることはできず、江戸に戻ることになりました。

ハリスから、清と戦争中のイギリスやフランスによる日本侵略の可能性を指摘され、そうなる前に、日本と友好的なアメリカとアヘン輸入禁止を含む通商条約を結ぶことの有益性を説かれた幕閣は、アメリカとの条約締結は必要であると判断しました。

1858年4月に大老に就任した井伊直弼は、条約調印当日の閣議で、天皇の勅許を優先させるようにと主張しました。

しかし、開国・積極交易派である老中・松平忠固は即時調印を主張し、幕閣の大勢も忠固に賛同しました。

直弼は最後まで勅許を得てから、との主張を繰り返すのですが、即時調印を望む交渉担当の井上清直から「やむを得ない場合には調印しても良いか」と聞かれると、直弼は「そのさいはいたしかたもないが、なるたけ尽力せよ」と答えてしまいました。

この回答を聞いた交渉担当・井上清直・岩瀬忠震は、神奈川沖小柴のUSSポーハタン号に赴き、直弼の意向に背き、条約調印をしてしまいました。

日米修好通商条約の内容

1858年7月29日に日本とアメリカの間で結ばれた日米修好通商条約。

この内容は、14条からなるもので主な内容は、

  1. 外交代表の交換
  2. 箱館(函館)・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大阪の開市
  3. 領事裁判権の承認
  4. 関税自主権の放棄

などでした。

日米修好通商条約とは、日本にとって不平等条約で、日本の主権を侵害し、経済的にも国内産業の大きな妨げになりました。

後に日本はそれを改正することを最優先課題として取り組むようになります。

この勅許のないまま条約を締結したことは、後に日本に大きな政争を引き起こすことになりました。

まとめ

将軍が病床にあり幕政は老中主導で行っていた時代。

欧米列強の脅威にさらされ、これまで幕府独自の政治を行ってきたにも関わらず、朝廷や諸藩に意見を求めるようになった幕府の威信は落ちる一方になってしまいました。

雄藩での藩士教育にも力が入るようになり、様々な思想が入り混じるようになりました。

その結果、幕府閣僚も一枚岩ではなくなり、開国派と攘夷派、そこにも数種類の派閥が出来上がり、問題は複雑に絡み合ってきました。

多くは井伊直弼が独断で日米修好通商条約を結んだと言われてきましたが、近年では直弼は最後まで勅許を得るようにと主張していたと言われています。

どちらにせよ、大老という幕府トップの座にいた直弼はこれから苛烈な非難を浴び、直弼自身も非道な処罰を与え、それにより反幕府勢力の恨みを買うことになります。

次回は安政の大獄から考えてみたいと思います。


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