きっかけは、日米修好通商条約でした。

アメリカ側に領事裁判権があり、日本に関税自主権がないこの不平等条約を朝廷の勅許を得られないまま結ばざるを得なかった大老・井伊直弼は一橋派の反発を受けることになりました。

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攘夷派である水戸藩前藩主・徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬は抗議のために行動を起こし、その結果、井伊直弼による大規模な粛清が始まります。

安政の大獄 経緯

1858年7月29日、日本はアメリカ合衆国と日米修好通商条約を締結しました。

日米和親条約締結から、自由通商についての条約締結を計画していたタウンゼント・ハリスの強硬な主張により、幕府はアメリカとの自由通商もやむなし、という穏便開国派の主張が大勢をしめていました。

アメリカと一戦を交えてもとても太刀打ちできるわけがなく、それならばいっそ早々に開国し、少しでも日本に有利な条件で通商条約を締結しようという主張です。

朝廷の勅許を得てから調印するべく、老中首座の堀田正睦は入京し、勅許を得るために力を尽くしたのですが、梅田雲浜ら在京の尊攘派の工作があり、攘夷論者である孝明天皇から勅許を得ることはできませんでした。

朝廷からの「大名再喚問の後、再上奏せよ」との勅諚を言い渡された堀田は、朝廷の態度を軟化させるために、別の問題(将軍後継問題)で、一橋派に加担すれば、一橋派と親密である朝廷の態度は和らぐのではと考えました。

江戸に戻った堀田は、大老として一橋派の越前松平家の松平春嶽を当てようと将軍・家定に上申すると、家定から「大老には、家柄と言い、人物と言い、井伊直弼をおいてその人はいない」と却下され、その席で井伊直弼の大老就任が決まったのです。

1858年4月、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任しました。

6月には徳川慶福を推す南紀派と一橋慶喜を推す一橋派の間で争われていた将軍後継問題は、南紀派勝利で決着がつき、13歳の徳川慶福(家茂)が14代将軍となることが決まりました。

そんな中、6月中旬、清でアロー号事件が休戦となり、突然、神奈川沖まで軍艦でやって来たハリスから即時条約調印を迫られるという事態が発生しました。

大老となった直弼は、勅許を得てからの日米修好通商条約締結を主張し、勅許を得る間の交渉引き伸ばしを指示、全権を任せている下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震に伝えました。

しかし、この時、幕府の大勢は老中・松平忠固が唱える勅許不要論となっており、即時調印を主張する井上と岩瀬は、やむなき場合は調印しても良いかと直弼に問い、直弼が頷くと、交渉場所に到着するや即刻調印してしまったのです。

直弼の意向を無視し、勅許を得ずして日米修好通商条約は締結することになったのです。

これを知った徳川斉昭らは、不敬として、直弼を弾劾するために不時登城を敢行し、処罰を受けることになったのです。

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不時登城の経緯

条約が調印されると、直弼は老中・堀田正睦と松平忠固を罷免、蟄居を命じました。

堀田正睦は違勅調印の責任を、松平忠固には宿次奉書による朝廷への報告の責任を負わせたためでした。

条約締結の全権を任されていた井上清直と岩瀬忠震は左遷されました。

一橋慶喜は直弼に抗議するため1858年8月2日に登城し、違勅調印を責め、宿次奉書(条約調印を朝廷に奏文するのに老中が連署加判した文書を宿次飛脚で京都の武家伝奏に送ること)による報告を不敬として非難しました。

翌日朝に、松平春嶽は井伊邸を訪問し、直弼を詰問。

同日、徳川斉昭ら一橋派大名が一斉に不時登城し、直弼を詰問しました。

斉昭らは「調印いたし候儀は、御違勅に付き、今日は掃部頭に腹切らせ申さずでは退出致さず…」と息巻いていました。

この時、徳川斉昭らは、直弼の違勅調印を理由に直弼を排斥しようとする意図を持っていました。

責任を取らされる形となった直弼は、ひたすらに平身低頭「申訳なし」と繰り返し、斉昭たちの弾劾を受け流しました。

後日、直弼はこの不時登城の不始末を問い、徳川斉昭に謹慎、松平春嶽・徳川慶勝らに蟄居、徳川慶篤と一橋慶喜に登城停止をそれぞれ命じたのです。

戊午の密勅

孝明天皇は、宿次奉書によって知らされた直弼の違勅調印に対し、譲位を言い出すほど激怒し、水戸藩に対して勅書を下賜しました。これは、関白・九条尚忠の裁可を経ない下賜であり、そのときの干支が戊午であったことから「戊午の密勅」と呼ばれています。

その内容は。

  • 勅許なく日米修好通商条約(安政五ヵ国条約)を結んだことに対しての呵責、及び詳細な説明の要求。
  • 御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体の実を為すこと。 幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよ。
  • 上記2つの内容を諸藩に廻達せよとの副書。

将軍の一臣下である水戸藩に朝廷から直接勅書が出されました。しかも、この勅書の写しは、尾張・越前・加賀・薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・因幡・備前・津・阿波・土佐の13藩にも各藩に縁のある公家を通し、朝廷から密かに送られていました。

幕府をないがしろにし、幕府の威信を失墜させた行為として、幕府は激怒。

直弼はこの件を見過ごすことができませんでした。

この時、水戸藩内部でも尊皇攘夷派と幕府との関係を重視する保守派とで対立が激しくなっていました。尊皇攘夷派も、密勅に忠実に従おうとする過激派と幕府に返納すべきと考える穏健派に分裂していました。

幕府は勅書の内容を秘匿し、水戸藩に対して密勅の返納を求めました。

水戸藩の主流は、密勅の返還する方針となったのですが、水戸藩の過激派の藩士が勅書返納を阻止するため抵抗したため、この一件は、天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀と幕府に疑われ、水戸藩は多くの藩士を処分されることとなりました。

安政の大獄

大老・井伊直弼は、戊午の密勅は幕府の権威を失墜させたとして、それに関わった者たちの処分を決めました。

幕府側の同調者であった関白・九条尚忠が辞職に追い込まれたため、老中・間部詮勝、京都所司代・酒井忠義らが上洛し、近藤茂左衛門、梅田雲浜、橋本左内らを捕縛しました。それを皮切りに処罰者は公家の家臣にまで及ぶ激しい弾圧となり、その数は100人以上となりました。

この処罰者の人選は、直弼の側近、京都在住の長野主膳(国学者で直弼の師)が中心となって行いました。

主な処罰者

一橋派の藩主も処罰を受けています。

  • 一橋慶喜(一橋徳川家当主):隠居・謹慎
  • 徳川慶篤(水戸藩主):隠居・謹慎
  • 松平春嶽(福井藩主):隠居・謹慎
  • 徳川斉昭(前水戸藩主):永蟄居
  • 徳川慶勝(尾張藩主):隠居・謹慎
  • 伊達宗城(宇和島藩主):隠居・謹慎
  • 山内容堂(土佐藩主):隠居・謹慎
  • 堀田正睦(佐倉藩主):隠居・謹慎
  • 松平忠固(上田藩主):隠居・謹慎

他、

朝廷関係者にも処罰者が出ました。

主な重罪者としては、

  • 近衛忠熙(左大臣):辞官・落飾
  • 鷹司輔熙(右大臣):辞官・落飾・謹慎
  • 鷹司政通(前関白):隠居・落飾・謹慎
  • 三条実万(前内大臣):隠居・落飾・謹慎

他、

その中で、最も厳しい処罰が死刑です。

8人が処刑・6人が獄死となりました。

  • 吉田松陰(長州毛利大膳家臣):斬罪
  • 橋本左内(越前松平春嶽家臣):斬罪
  • 頼三樹三郎(京都町儒者):斬罪
  • 安島帯刀(水戸藩家老):切腹
  • 鵜飼吉左衛門(水戸藩家臣):斬罪
  • 鵜飼幸吉(水戸藩家臣):獄門
  • 茅根伊予之介(水戸藩士):斬罪
  • 梅田雲浜(小浜藩士):獄死
  • 飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来):斬罪
  • 日下部伊三治(薩摩藩士):獄死
  • 藤井尚弼(西園寺家家来):獄死
  • 信海(僧侶、月照の弟):獄死
  • 近藤正慎(清水寺成就院坊):獄死
  • 中井数馬(与力):獄死

梅田雲浜

元小浜藩士の梅田雲浜は、尊皇攘夷派の思想的指導者として各地を遊説していました。

将軍後継問題では一橋派の尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒として幕府を激しく批判。

戊午の密勅では、朝廷に働きかけて密勅を水戸藩に降下させることに成功。

そのため、密勅に関わった雲浜は京都所司代・酒井忠義に捕らえられ、江戸に送られました。

1859年、獄中で病死。享年45歳。

橋本左内

将軍後継問題で一橋慶喜擁立のために、藩主・松平春嶽の手足となって活躍していました。

1858年、北町奉行所に出頭。その後6度に渡り取り調べを受けました。

1859年10月7日、頼三樹三郎と共に、江戸伝馬町の牢屋敷で斬首となりました。

享年26歳。

頼三樹三郎

儒学者の息子として生まれ、三樹三郎も儒学者とし活躍しました。

ペリー来航から一気に政情不安や尊王攘夷運動にのめり込み、将軍後継問題で朝廷に一橋慶喜擁立を求めて働きかけたため、捕縛されました。

江戸の阿部家福山藩邸に幽閉され、江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内、飯泉喜内らと共に斬首されました。享年34歳。

安島帯刀

水戸藩の家老。将軍後継問題で一橋慶喜擁立のために奔走しました。帯刀は一橋慶喜を推す一橋家臣の平岡円四郎や福井藩士の中江雪江・橋本左内、儒学者・梅田雲浜、公家の家臣・飯泉喜内、五摂家筆頭近衛家老女・村岡、公家の鷹司家や三条家、薩摩藩の西郷隆盛などと通じていました。

このことにより、帯刀は捕らえられ、1859年、駒込の三田藩邸において切腹となりました。享年48歳。

鵜飼吉左衛門・鵜飼幸吉親子

水戸藩京都留守居役。日米修好通商条約締結のための勅許打診に反対して廷臣八十八卿列参事件を画策しました。戊午の密勅では、孝明天皇からの降下に際して、持病が悪化した吉左衛門に代わり子の幸吉が江戸小石川の水戸藩邸に運びました。

老中・間部の入京と同時に親子共々捕縛され、苛烈な拷問の後、親子共に死罪となりました。吉左衛門享年62歳、幸吉享年31歳。

茅根伊予之介

水戸藩士。藩内の尊皇攘夷派として活躍、将軍後継問題で慶喜擁立のため運動を続けたため不穏分子として幕府評定所に出頭を命じられました。摂津国三田藩九鬼氏の江戸藩邸に預けられ、三田藩邸内で死罪となりました。

享年35歳。

飯泉喜内

三条実万の家士。ペリー来航に際して『祈りの一言』を実万に建白して幕政を批判しました。将軍後継問題では、橋本左内・梅田雲浜らと共に一橋派に属していました。

真福寺のロシア人との接触を疑われて捕縛され、自宅から志士との手紙などの数多くの書類が押収され、それが安政の大獄に発展しました。

江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内・頼三樹三郎と共に斬首されました。

享年54歳。

吉田松陰

長州藩の志士。松下村塾で、明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的な影響を与えた人物。安政の大獄で梅田雲浜が捕縛されると、萩にて雲浜と面会したということで連座、江戸に送られました。評定所で一旦は無関係として釈放が決まったのですが、自ら老中・間部詮勝暗殺計画を仄めかし、伝馬町牢屋敷に投獄され斬罪となりました。

享年30歳。安政の大獄、最後の処刑者でした。

最後に

井伊直弼は一橋派との派閥抗争の鎮定化のために反対派の大規模粛清を行いました。

戊午の密勅の件で水戸藩士を大量に処罰したため、直弼は水戸藩過激派から恨まれるようになり、暗殺計画が立てられることになるのです。

処罰者は100人以上、幕府の権威を守るためとはいえあまりに苛烈な処罰でした。

次回は、桜田門外の変について考えてみましょう。