「井伊」の名がつく有名人と言ったら誰を思い浮かべますか?

今でしたら「おんな城主 直虎」の主役・柴咲コウさん演じる「井伊直虎」でしょうか?

それとも徳川四天王、彦根藩の藩祖、井伊の赤鬼と称された、菅田将暉さん演じる「井伊直政」でしょうか?

学生の頃、試験に出ると言われて必死に覚えた名前、字が特徴的で大変苦労した、教科書に絶対載っている「井伊直弼」。やはりこの人物の名が一番馴染み深いのではないでしょうか?

安政の大獄、桜田門外の変、暗殺された江戸幕府の大老・井伊直弼。歴史の教科書には必ず出てきますよね。

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2018年の大河ドラマ「西郷どん」では佐野史郎さんが演じられます。

井伊直政は「井伊の赤鬼」と称されましたが、子孫の井伊直弼も同じように「井伊の赤鬼」と呼ばれることになるのです。

地元彦根藩では名君と讃えられていたにも関わらず、尊皇攘夷派の怨嗟を一身に受け暗殺されてしまった井伊直弼。一体直弼に何があったのでしょうか、井伊直弼とはどんな人物だったのでしょうか?

井伊直政とのつながり

井伊家24代当主・井伊直政が徳川家康に仕えたことから、井伊家は代々徳川家に仕えることになりました。直政は、徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支え、幕府を開くにあたっての一番の功労者であると「徳川実記」や「寛政重修家譜」に記録されています。

初代彦根藩の藩主となった井伊直政の跡を継いだのは次男の直孝です。その後、直澄→直興→直通→直恒→ (4代・直興が再封後) 直治(改名して直該)→直惟→直定→直禔→直定(再封)→直幸→直中→直亮→直弼→直憲となっています。

直弼は初代から数えて15代目の彦根藩藩主(2代直孝の前に直勝を入れると16代、彦根城博物館、井伊家系図では13代など数え方はいくつかあります)ということになります。

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井伊直弼の生い立ち

井伊直弼は1815年11月29日に彦根藩13代藩主・井伊直中の14男として近江国犬上郡(現在の滋賀県彦根市金亀町)にある彦根城の二の丸で産声を上げました。母は側室のお富でした。

父の直中は、寛政の改革に倣い、藩内の財政を見直し、防火制度を整備、殖産興業政策実施、藩校(稽古館、後に弘道館と改名しました)の創設、治水工事などの干拓事業を行うなど、積極的に藩政改革を行いました。また、井伊神社を建て藩祖・井伊直政を祀り、佐和山には石田三成の弔うため、石田郡霊碑を建立しました。

歴代藩主の中でも名君の一人として数えられていました。

母の君田富は幼い頃から井伊家の中屋敷に仕え、長ずると藩主・直中の側室となりました。たいそう美しい賢婦人だったため、井伊家家中からは「彦根御前」と呼ばれていました。

直中の正室・豊(陸奥盛岡藩9代藩主の娘)は、直中が江戸から彦根に戻った後も江戸城大奥との繋がりを保つため江戸の屋敷で過ごしたため、富は直中の寵愛を強く受けたと言われています。

直中と富の間には11男・直元、13男・直与(後の内藤政優)、14男・直弼が生まれました。

父・直中はとにかく子沢山な人でした。嫡男の直清を世子としたのですが、病弱だったため1805年に廃嫡し、3男の直亮を世子としました。他の兄弟たちは他家へ養子に行ったり、婿養子となったりしたのですが、庶子であり14男だった直弼には養子の先もなく父・直中が1831年7月に死去した後は、槻御殿から三の丸尾末町屋敷に入り、300俵の部屋住みとなりました。部屋住とは家督を相続できない者が分家・独立をせずに親兄弟の家に留まっている状態のことをいいます。嫡男がまだ家督を相続していない場合にも「部屋住み」と呼ばれることもありますが、直弼の場合、独立もせずに親兄弟の家に留まる方の意味です。17歳から32歳までの15年間という長い時を部屋住みとして過ごしたのです。

この長い15年という時間を直弼が何をしていたのかというと、近江市場村の医師である三浦北庵の紹介で、長野主膳(長野義言)と師弟関係を結び国学を学んでいました。

己を花の咲くことのない埋れ木に例え「埋木舎(うもれぎのや)」という名を尾末町屋敷に付け、茶道・和歌・鼓・禅・兵学・居合術などの様々な学問を学び、茶人として大成すると同時に、あらゆる学問に精通するものとしてその聡明さを示していました。

13代藩主・直中の跡を継いだ14代直亮には実子がおらず、異母弟で直弼の兄、直中の11男・直元を養嗣子としていましたが、家督相続前、1846年に直元は亡くなってしまいました。そのため直亮は、直中の14男、異母弟の直弼を養嗣子として迎えることになりました。

直弼の功績

藩主となった直弼は藩政改革に取り組みました。人事の大幅な刷新、家老評議の正常化などに努めています。

14代直亮という人は、なかなか癖の強かった人のようで、あまり家臣からの評判は良くなかったと言われています。父・直中は息子を非常に心配していたようで直亮の人格を憂いた遺言書を老中あてに残しています。

彦根藩の藩政決定は元来家老評議を経て藩主の判断を仰ぐというものでした。しかし、直亮の代には家老評議を重視せず、専制的な政治になっていたようです。

そのため、直弼が藩主となった折にその制度を元のように機能させるべく人事の刷新、家老評議の正常化などが行われたのです。さらに、直中の代で創設された藩校の教育レベルの向上を図り、人材育成にも力を注ぎました。

1852年には国学の師である長野主膳を正式に藩士として迎え、さらに、宇津木六之丞や中川禄郎、三浦安庸などを登用しました。

また、領地内の巡検を9回も行い、領民と触れ合い、模範的な者には報奨を与え、さらに、直亮が残したお金を家臣や領民に分け与えるなどの政策を行いました。

こうした藩政改革により直弼は名君と呼ばれるようになったのです。

直弼は藩政だけでなく幕政にも力を見せ始めました。

江戸城においては「溜詰(たまりづめ)」として政治に参画していました。溜詰めとは、大名が江戸城に登城した際の控え室として黒書院の溜の間を与えられることです。親藩や譜代の重臣から選ばれた家格の高い譜代大名の控え室で、これを代々許されたのは彦根藩伊井家・会津藩松平家・高松藩松平家だけでした。

1853年6月、ペリーが浦賀に来航し日本に開港と貿易を要求しました。老中・阿部正弘は、その対処法を諸大名に広く意見を求めました。

参勤交代により江戸から彦根に戻ったばかりの直弼は、家臣たちにこれに対する意見書の提出を求めました。この意見書は彦根博物館に残っています。

多くの意見としては交易を拒絶し、軍備を整え陸戦に備えるというものでした。しかし、中川禄郎という儒学者が「打ち払いは不可能、一時的に外国の技術を取り入れて軍備を整えてから攘夷を行うべし」という意見を出しています。

直弼はこの中川の意見を採用し、井伊家の意見として幕府に提出することにしました。

1854年3月に日米和親条約が締結され、ハリスが下田に赴任することになると、今度は日米修好通商条約の締結を求めてきました。これは不平等条約と言われている条約です。

何が不平等であるかというと

  • アメリカ側に領事裁判権が認められていること
  • 日本側に関税自主権がなかったこと

この2つなのです。

領事裁判権を認めるということは、外国人が日本で罪を犯しても裁くのは外国人の本国の領事になります。

関税自主権がないということは、外国のものに関税をかけられないということです。自国の品物を保護することができず、自国の産業の衰退を招くことになってしまいます。

この件で幕府内において対立が起こりました。

直弼は外国を打ち払うことは難しいとして、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と老中・阿部正弘に開国を主張しています。溜詰諸候も同様に開国を主張していました。

しかし、水戸藩の徳川斉昭は攘夷を強く唱えており、対立を深めていきました。

さらに、将軍後継問題でも対立することになってしまいます。

1853年、ペリー来航から19日後に第12代将軍・家慶が亡くなり、その後、家定が第13代将軍となりました。しかし、家定は元々体調が悪く、将軍に就任以後はさらに病状が悪化し、幕政は老中・阿部正弘らに任されることになりました。

病弱な家定には子が望めなかったため、後継問題も幕府を二分する大きな問題となっていました。

直弼は血統が近いという理由で南紀派、紀州徳川家の徳川慶福(後の家茂)を推していました。他には会津藩・松平容保や老中、大奥なども南紀派でした。

一方一橋慶喜を推す声もありました。慶喜は水戸藩の実力者・徳川斉昭の息子で聡明と名高い人物でした。外国からの脅威に柔軟な対応ができる英邁な人材として、福井藩・松平春嶽や薩摩藩・島津斉彬らが推していました。

老中・阿部正弘が亡くなると開国派の堀田正睦が老中首座に就任しました。堀田は日米修好通商条約の勅許を求め、上洛するのですが、攘夷主義だった孝明天皇から許しは貰えず、保留にされてしまいました。これは今までにないことでした。

幕府が朝廷にお伺いをたてた事はそのまま承認されることが常でした。

堀田は江戸に戻ると、この難局を乗り切るためには大老を置くべきと唱え、一橋派の松平慶永を推挙しました。しかし、将軍・家定は「家柄と申し、人物と申し、大老は掃部頭(直弼)しかいない」と言い、堀田の考えを退け、直弼を大老に就任させたのです。

大老就任

大老に就任した直弼は、家定と相談し、後継を紀州徳川家の慶福に定め、条約調印については諸大名の意見を取りまとめ、天皇の勅許を取るべく奔走していました。

ところが、アロー戦争(中国・清におけるイギリス・フランス軍との戦争)が休戦になったことを受けて、ハリスはもうすぐイギリス・フランス軍が攻めて来るとして、条約の調印を迫りました。

直弼は天皇への説明を優先させようとし、調印を引き伸ばす方針を固めていたのですが、ハリスに対応する外交官・岩瀬忠震と井上清直から、万が一の際には調印しても良いかと申請され、直弼は致し方ないとして承諾してしまったのです。すると両名はハリスのもとへ向かったその日に条約の調印をしてしまいました。

そもそも鎖国とは、幕府が始めたことで朝廷とは無関係であったため、慣例上は条約締結に勅許は必ずしも必要というわけではない、という考えもありました。

この勅許を得ずに条約の調印を行ったことが問題となり、一橋派は直弼を批判、規則外の不時登城を行い、直弼を詰問しました。その後、南紀派が押す慶福が将軍の後継として発表され、不時登城をした一橋派には処分が下されることになりました。

この後継の決定と一橋派の処分がまた波紋を呼び、一橋派は攘夷派である孝明天皇と手を結び、朝廷に働きかけると、天皇から幕府の刷新と大名の結束を説く戊午の密勅がくだされました。これが幕府に届けられる前に水戸藩に届けられ、これを諸藩に伝えるように勅命がくだされたのです。

さらに、幕府よりであった関白・九条尚忠の任が解かれ朝廷から遠ざけられることになったのです。

天皇が一大名に命令を下すということは、朝廷と幕府の体制を覆す重大事でした。

安政の大獄

この件を重く見た幕府はこれに関わった人間を捕らえ、さらに捜査を進めました。すると、武力による政権打倒計画まで露見したため、この件に関わった人々を厳しく処罰するに至りました。

直弼は、長野義言の進言を受け幕政に批判的な志士や一橋派への処罰を断行しました。

まず、近藤茂左衛門、梅田雲浜、橋本左内らを逮捕し、さらに水戸藩の鵜飼吉左衛門、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧を行いました。

捕らえられ、罰せされたものは皇族、公家、僧、藩主、浪人、学者、町人にまで及び、評定所で詮議を受けた後、死罪、遠島、謹慎などの処分を受けました。連座者は100人以上にも上りました。

徳川斉昭は永蟄居、一橋慶喜は隠居・謹慎、極刑を申し付けられたものは8人にも及ぶという非常に苛烈で厳しい処罰でした。

最後の刑死者は、かつて、彦根藩主である直弼を名君と賞賛した長州藩士・吉田松陰でした。

1859年、直弼は朝廷に老中・間部詮勝を送り、孝明天皇に幕府の意図を説明しました。すると12月には条約の調印を了解したとの天皇の沙汰書がくだされることになりました。このため、直弼は水戸藩が所持している戊午の密勅を返納するように要求しました。水戸藩主・慶篤は幕府に恭順の意を表していたため、返納やむなしということになったのですが、斉昭派の天狗党がこれに反発、圧力をかけ、返納が阻止されてしまいました。

1860年、この事を危惧した謹慎中の斉昭は、戊午の密勅を返納するよう論書を出しました。これにより、天狗党は斉昭という後ろ盾を失い、幕府や水戸藩からも疎まれるようになっていきました。

そして天狗党のその怒りは大老であった井伊直弼に向かい、直弼を暗殺し幕政を改革しようとする計画に発展していくのです。

桜田門外の変

尊攘過激派の水戸藩士と薩摩藩士を加えた攘夷過激派は、江戸に潜伏し大老暗殺の機会を待ちました。水戸藩からは、過激派藩士たちを呼び出す召喚状を出すなど、彼らの不穏な動きを察知して対策を取ろうとしていたのですが、過激化した彼らはそれに応じませんでした。

1866年3月1日、彼らは大老・井伊直弼暗殺を3月3日に桜田門外で襲撃すると最終決定を下しました。翌2日、決別の酒宴をした彼らは襲撃の成功を誓い酒盃を交わし、藩に類が及ばないように夜明けまでに除籍願いを届けたのです。

そして、1866年3月3日、直弼への襲撃が決行されました。

この日は、明け方から季節外れの雪が降っており、あたり一面は真っ白な雪に覆われていました。沿道には大名行列を見ようと江戸町民が見物していました。雛祭りの祝賀のため在府の諸侯は総登城することになっていたのです。

午前9時頃、彦根藩邸上屋敷から直弼の行列が門を出てきました。総勢60名ほどで、雪のため護衛の者は雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘に袋をかけていました。

行列が桜田門外に差し掛かると、襲撃が始まりました。

水戸浪士・黒澤忠三郎が駕籠に向けてピストルを発射、これを合図に全方向から駕籠への抜刀襲撃が開始されました。

駕籠に向け放たれた銃弾は直弼の腰部から太腿にかけて貫通しており、居合の達人であった直弼は動くことができなくなってしまいました。反撃しようとした彦根藩士でしたが、雪のため刀に袋をかけていたせいで咄嗟に抜刀できませんでした。それでも彦根藩士は必死に抵抗し、襲撃者側にも多大な被害をもたらしました。

しかし、やがて護る者がいなくなった駕籠に、襲撃者たちの刀が突き立てられ直弼は駕籠から引きずり出されました。そして斬首されてしまったのです。享年46歳(満44歳)

襲撃開始から直弼斬首まで僅か十数分の出来事でした。

討ち取った直弼の首をめぐり、浪士たちと彦根藩士の間で争いが起こり、重傷を負った浪士・有村は直弼の首を引きずって逃走したのですが、若年寄・遠藤胤統の邸の門前で力尽き自決、直弼の首は遠藤家に収容されることになりました。

襲撃の知らせを受けた彦根藩はすぐさま現場に出撃したのですが、もはや襲撃は終わっており、現場に残された駕籠や死傷者を回収、鮮血にまみれた雪までも徹底的に回収しました。

直弼の首の所在を突き止めた井伊家は遠藤家に対し返還を要求しました。井伊家、遠藤家、幕閣で協議をし、直弼の死は隠されることになりました。表向きには直弼は負傷し自宅療養中とした、事実を隠した届けを幕府に提出。直弼の首は、別人の加田九太郎の首であると偽り、遠藤家から井伊家へ返還されました。

幕府は譜代筆頭である井伊家の断絶を防ぐため、直弼は急病を発したためしばらく闘病、そのため急遽相続願いを提出、受理された後に病死、としました。

幕府の法では、跡目相続の手続きをしていない大名が不慮の死を遂げた場合、家名断絶、領地没収という決まりになっていました。しかし幕閣は、彦根藩を存続させることで、主君を打ち取られた彦根藩士による水戸藩への敵討ちを防ぎ、安政の大獄などで重い処分を受けていた水戸藩にさらに処罰を加えることで起こる水戸藩士の反発という事態の悪化を防いだのです。

跡目相続は受理され、まだ13歳であった嫡男・直憲が直弼の後を継ぐことになりました。

襲撃に加わった水戸浪士たちの末路はどうなったのかというと、その場で死亡した者、切腹、捕らえられ斬首など、様々な末路を辿りました。

直弼を護衛していた彦根藩士のうち、死亡者の家は跡目相続が認められましたが、生存者に対しては、護衛を失敗し家名を辱めたとして処分が下されました。

重傷者は減知の上幽閉、軽傷者は全員切腹、無傷の者は全員が斬首の上家名断絶などの厳しい処分が下されました。

その後の井伊家

その後、直弼の開国路線を継承した老中・安藤信正は幕府の権威を取り戻すため公武合体を推進。皇女和宮の降嫁を決定したのですが、尊皇攘夷派の反発を受けることになりました。

1862年1月15日、老中・安藤信正は坂下門外にて水戸藩浪士の襲撃を受けました。幸い暗殺は失敗に終わり、襲撃者はいずれも暗殺を果たせず亡くなりました。この2つの襲撃事件により幕府の権威は失墜し、長州藩士を中心とする尊攘派が権力を強めていきました。

井伊家内部でも政変が起こりました。

藩内の尊攘派である若手藩士たちが直弼の懐刀であった開国派の長野主膳に対し、処罰を求めたのです。尊攘派の家老・岡本はその訴えを聞き、過激な藩士たちを諌めた上で藩主・直憲に長野の処分を直訴しました。直憲はこの件を岡本に一任し、長野は処刑され、江戸にいる宇津木も斬首されました。

1862年、松平春嶽らによる幕政改革(文久の改革)が行われ、井伊家には10万石の減封が伝えられました。

さらに京都守護職までも剥奪され、大打撃を被りました。こうした処分を受けないように直弼派を粛清してきたにも関わらずくだされた処分に藩士は抵抗し、藩の窮状を訴え減封取り消しを求めますが、認められず、泣く泣く決定を受け入れました。

直憲は没収された失地を回復すべく奔走することになります。処分されたことにより幕府との関係は険悪化しますが、天誅組が挙兵した折には幕命を受け出兵し、鎮圧に貢献、さらに池田屋事件や禁門の変で功を上げ、3万石を回復しました。

1866年、長州征伐でも出兵しましたが、長州軍に圧倒され大敗してしまいました。

藩内では、逼迫した財政のため倹約を命じ、直憲自ら綿服を着るなど質素倹約に励みました。さらに、富国強兵政策のため彦根藩は洋式銃隊を編成、西洋砲術の研究や訓練を開始しました。

倒幕の動きは活発化し、第15代将軍に一橋慶喜が就任し、幕政改革を行い始めたのですが倒幕の波に抗いきれず、慶喜は政権を朝廷に返還することになったのです。

孝明天皇は王政復古の大号令を発し、朝廷を中心とした新政府が誕生しました。

彦根藩士たちは朝廷につくか、徳川につくかで激しく意見が別れました。家老の岡本や木俣は徳川方を主張し、谷鉄心や新野親良らは新政府を推しました。結果、彦根藩は、兵は慶喜のいる二条城へ派遣するが、藩主・直憲自身は城へは行かぬ、という決断をしました。慶喜が二条城から大阪城へ移動する時も、わずか2小隊ですが大阪城へ派遣しています。

一方で新政府側にも彦根藩は新政府につく旨を伝えています。

後に直憲は新政府に与することを決断し、鳥羽・伏見の戦いでは谷鉄心らの藩兵が新政府軍として東寺や大津を固めました。さらに、偽名を使っていた新選組・近藤勇の正体を見破った彦根藩士が近藤勇を捕縛しました。

1869年、戊辰戦争の功により2万石が与えられ、翌月には彦根藩知事になりました。

その後廃藩置県になり、知事の職は免じられ、彦根藩はなくなり、直憲は彦根藩最後の城主となったのです。

最後に

歴史は起こった事柄だけを見て「こうである!」と言うことはできません。事件が起こった背景や事件を起こした人物の育った環境や学んできた学問、周囲との関係、時代の流れなど、あらゆるものを探り考え、そうしてようやく真実の欠片が見えてくるのだと思っています。

井伊直弼という人物は、評価が大きく分かれる人物でした。

教科書や古い時代劇などでは悪役として多く語られていました。しかし、地元彦根藩では名君として讃えられており、領民に慈悲深い生真面目で優しい朴訥な人物であったと評されています。鎖国していた日本を開国に導いた偉人であると高く評価されています。

大河ドラマ「西郷どん」において、井伊直弼を演じるのは演技派・佐野史郎さんです。ドラマでは一体どんな直弼を魅せてくれるのでしょうか?

彦根市が称するような朴訥とした慈悲深い名君なのか、政策を強引に推し進める冷酷冷徹な圧政者になるのでしょうか?

2018年の新大河ドラマ「西郷どん」、とても楽しみです。