「西郷どん」で北川景子さんが演じる於一(おかつ)こと篤姫。

2008年の大河ドラマ「篤姫」(宮崎あおいさん)の主人公として有名です。

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平均視聴率24%という大人気ドラマとなり、あまり知られていなかった篤姫という歴史上の女性を、一躍有名にしました。

篤姫とは、どのような生涯を送った女性なのでしょうか。まとめてみました。

生まれ

天保6年(1835年)12月19日に、薩摩藩の重臣・今和泉家の第4子として生まれました。幼いころは於一(おかつ)、一子(かつこ)などの名で呼ばれていました。島津家の分家である今和泉家の「お姫様」として育ちます。島津斉彬とは27歳の年の差がありますが、いとこの関係にあたります。

聡明で利発な少女だった於一は、父・忠剛が「男子であれば」と悔しがったというエピソードがあるそうです。通常であれば島津の重臣の家などに嫁ぎ、一生を終えたであろう於一。その人生が一変するのは18歳のときでした。

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将軍の継嗣問題

時の将軍・徳川家定は、このとき29歳でしたが、病弱な上に世継ぎとなる男子が生まれていませんでした。公家から迎えた正室は2人とも早世。将軍の正室は公家五摂家から迎えるのが習慣でしたが、3人目となると、他に適当な女子がいません。十一代将軍・家斉の正室が島津家の出身だったことから、幕府は薩摩藩島津家に正室候補を出すよう求めます。

「西郷どん」ドラマでは、斉彬が輿入れを画策したような描写ですが、史実ではたまたまいいタイミングで幕府側から申し入れがあったようです。

しかしこのとき島津家にはちょうどよい年頃の女子がいませんでした。そこで分家の姫、於一に白羽の矢が立ったのです。

将軍家への輿入れ

於一は、名を篤姫と改め島津斉彬の養女になり、嘉永6年(1853年)に江戸に向います。幕府内には、外様である島津家からの輿入れに反対の声もあり、スムーズに輿入れというわけにはいきませんでした。さらに近衛家の養女になる形をとり、安政3年(1856年)に輿入れとなります。反対派も、公家の頂点である五摂家筆頭という近衛家の家格に文句をつけられず、やっとことが運んだのでした。

大奥での生活

しかし、輿入れしてわずか2年後の1858年、将軍・家定は35歳の若さで亡くなってしまいました。篤姫は尼となり天璋院と名乗ります。

家定の次に将軍となったのは、家定のいとこにあたる、紀州徳川家の家茂。家定の養子という形をとりました。篤姫は薩摩には帰らず、将軍の母として大奥を仕切ります。家茂は皇女・和宮を正室として迎い入れます。何事も公家風を通す和宮と、薩摩の武家育ちの篤姫は、反りが合わず不仲だったと言われています。13歳で将軍になった家茂でしたが、21歳の若さで亡くなります。

次に、水戸徳川家の家慶が将軍に。大奥改革を行おうとした家慶と、篤姫は対立。しかしその後、鳥羽伏見の戦いで破れ朝敵となった家慶の、助命嘆願を行っています。篤姫は、自分は徳川の人間であると考えていました。家慶のことは嫌っていたそうですが、徳川家の存続のために和宮と協力して、薩摩や朝廷に助命嘆願の書を送り続けたそうです。

明治以後

江戸城は無血開城、篤姫は城を離れます。16代将軍になるはずだった、徳川家達(いえさと)の養母として、江戸の屋敷で暮らします。家達の教育に携わりながら、大奥で働いていた女性の再就職などに力を尽くしました。薩摩からの援助は断り、徳川家から支給される生活費で、慎ましく生活していたそうです。

明治16年(1883年)、お風呂場で転んだ篤姫は、打ちどころが悪く、そのまま意識が戻らずに亡くなってしまいました。享年49歳でした。大奥でも女中と一緒に酒を飲むなど、気さくな人柄だった篤姫。葬儀には1万人もの人が見送りに集まったと言われています。

西郷隆盛との関わり

薩摩藩のお姫様・篤姫と、下級武士の西郷隆盛が、鹿児島時代に会っていたということは、史実ではちょっと考えにくいです。「西郷どん」ドラマでは、江戸行きの前に会話をしていますが、これはフィクションですね。

篤姫は輿入れのタイミングを待って1853年から江戸で暮らし、西郷隆盛は1854年から江戸の薩摩藩邸で庭形役として働いています。ひょっとしたら、顔を合わせる機会はあったかもしれません。また、篤姫輿入れの調度品を目利きしたのは、西郷隆盛でした。

輿入れ後は、大奥で暮らした篤姫。その後戊辰戦争で、徳川は旧幕府軍に、薩摩は新政府軍として、敵味方に別れます。旧幕府軍は破れ、徳川家は滅ぼされるところでしたが、篤姫は薩摩や朝廷に、家慶の助命や徳川家存続の嘆願書を送ります。嘆願先には、新政府軍の指揮官・西郷隆盛の名前もありました。西郷と勝海舟の話し合いなどがあり、江戸城は無血開城。この書状だけが徳川家の運命を決めたわけではないと思いますが、徳川家は存続できることになります。

最後に

薩摩生まれ・島津家出身の篤姫。

将軍の正室として輿入れしたものの子供はできず、結婚生活は2年にも満たない短いものでした。

輿入れ後は、完全に徳川家の人間として振る舞います。

明治維新後も江戸に暮らし、最後まで故郷に戻ることはありませんでした。