「西郷どん」第16回から、江戸時代最大と言われる弾圧事件「安政の大獄」が始まります。

大老・井伊直弼が起こした悪名高いこの事件、どんな原因で起こったのでしょうか?

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「西郷どん」では井伊直弼という人物は、冷酷な悪人というイメージで描かれていますね。

歴史上ではどんな人生を送ったのか、井伊直弼の人物像にも迫りながら、事件をまとめてみたいと思います。

井伊直弼の生い立ち

井伊直弼は、第11代彦根藩主・井伊直中の14男として生まれました。母は側室で、母と藩主との間に11男・直元、13男・直与がいました。5歳で母を、17歳で父を亡くします。18歳で元服しますが、14人も兄弟がいたため養子の行き先もなく、部屋済みとして300俵を与えられ、日々を過ごします。

直弼は優れた才能を持った人物で、学問や芸術、武術においても優秀な成績を修めました。茶道、能楽にも通じ、一派を作るほどの腕前。一期一会という言葉は、直弼が作ったと言われています。日本の歴史や尊王思想について長野主膳という国学者に師事して学びました。優秀だった直弼ですが、自分の邸宅に埋木舎(うもれぎのや)と名付け、部屋済みとして世に出ることなく一生を終えるのだろうと、鬱屈した感情を持っていたようです。

そんな直弼に転機が訪れたのが、32歳のときでした。井伊家の後継者だった兄・直元が死去し、直弼が後継者になったのです。さらに4年後には、藩主の兄・直亮が死去したため、15代・彦根藩主となりました。直弼は藩主として優れた才覚を発揮。その政治的才能を買われ、老中として幕政にも関与するようになります。

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幕府内での抗争

時は幕末、中国はアヘン戦争でイギリスに破れ、アメリカやロシアなどが日本に開国を迫ってきた時期です。さらにコレラの流行、安政の大地震などの天変地異に対処せねばなりませんでした。老中筆頭・阿部正弘は今までの体制では対応できないと考え、徳川家の血縁である水戸徳川家や越前松平家も、政治の中枢に関われるよう措置をしました。これにより徳川斉昭や松平慶永が、発言力を持つようになります。

一橋慶喜を次期将軍に推す、徳川斉昭と松平慶永ら一橋派。血筋の遠い一橋慶喜よりはと、消極的に徳川慶福を推す堀田正睦や井伊直弼ら、老中たちの南紀派。両者が対立します。国難に対応するための措置でしたが、阿部正弘の死後、幕政の内部抗争に発展してしまったのは、本人にとっても予想外であったと思います。残念なことでした。

安政の大獄のきっかけ

大老は、非常時にだけ制定される職です。13代将軍・家定によって、井伊直弼が大老に指名されます。大老になった井伊直弼は、次の将軍は慶福(将軍になってから家茂と改名)と定めました。

尊王思想とは、幕府だけでは異国の驚異に勝てない、天皇の元に日本が1つになって戦うべきだという考えです。攘夷とは異国の勢力を打ち払って鎖国を貫き通そうという思想。井伊直弼も尊王の気持ちは持っていましたが、世界情勢を理解した上での現実的な路線として、開国するほか道はないと考えていました。

アメリカとの通商条約は不平等条約というわけではなく、きちんとした交渉が行われていました。しかし結局、朝廷の勅許をもらえないまま、井伊直弼のいないところで、役人たちの手により日米通商条約が締結されてしまいます。朝廷と徳川斉昭の異国嫌いは強く、井伊直弼が勝手に開国したと激しく非難。徳川斉昭は「定められた日以外に無断で江戸城に登城してはいけない」という決まりを破って登城して、井伊直弼を詰問しました。井伊直弼は、決まりを破ったことを利用して、徳川斉昭を隠居に追い込みます。

徳川斉昭や水戸藩士はこの措置に怒り、朝廷に働きかけて「戊午の密勅」という勅命を出させることに成功します。密勅の内容は、朝廷が水戸藩に対して徳川幕府に変わって攘夷を行うように命じたものでした。朝廷と水戸藩が直接つながれば、幕府の権威自体が崩れてしまうため、井伊直弼は密勅の文書を返納させようと水戸藩を弾圧していきます。これが、安政の大獄の始まりです。

井伊直弼は水戸藩士以外にも、尾張や福井、土佐の藩士、そして密勅に関係した公家や皇族も捕らえたり辞職に追い込みます。さらに吉田松陰など、過激な尊王攘夷思想を持つ者たちも弾圧され、最終的に100名余りが罷免や島流し・処刑などの刑が下されました。

桜田門外の変

井伊直弼は水戸藩へ、戊午の密勅の返納を再三に渡って要求。水戸藩を改易(領地の没収)すると脅します。結局、水戸藩は折れて密勅は朝廷に返納されることになります。水戸藩は将軍家の流れを汲む御三家の一つで、これを改易しようとするのは横暴な行為でしたが、幕府に井伊直弼に逆らうものはもういませんでした。

水戸藩士は怒り、井伊直弼の暗殺を決行。これが桜田門外の変です。井伊直弼は暗殺計画を察知していましたが、地位を投げ出すこともなく、護衛を増やすなどの対策を取ることもありませんでした。享年46歳でした。

最後に

優秀な人物だった井伊直弼ですが、32歳まで部屋住みとして、世に埋もれて鬱屈として過ごします。これは彼の性格に大きな影響を与え、世の中に対する攻撃性を心に植え付けてしまったのかもしれません。

大老という権力を手にした後、望まぬ条約調印と、それによって朝廷や攘夷派から責められることで、彼の秘めた攻撃性が表に出てきたのでしょうか。徳川幕府を守ろうとする行動がきっかけでしたが、やがて自分に反対する相手をすべて弾圧してしまいます。これが安政の大獄です。

有能な人物で、保守的な政治思想を持っていたと言われる井伊直弼。時代が違えば、優秀な藩主、または老中として一生を終えたと思われます。しかし国や幕府の危機という高度な決断を迫られる時代には、保守的な人物は国政の舵取りには適さなかったのでしょう。最悪なタイミングでの権力集中が、江戸時代最大の弾圧を生み出してしまったのだろうと考えられます。