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「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その15 幕末。皇女和宮降嫁と坂下門外の変)。

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桜田門外の変で幕府の最高権力者であった井伊直弼が暗殺されたことにより、幕府の権威は地に落ちました。

直弼に変わり、幕政の中心となったのは老中首座となった安藤信正と老中・久世広周でした。

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彼らが幕府の難局を乗り切るためにとった政策は公武合体、皇女和宮の降嫁でした。

目次

皇女和宮降嫁

安藤らは井伊政権時から検討されてきた孝明天皇の妹・和宮と将軍・家茂の結婚を推進し、公武合体を持って幕府の権威を回復させようと考えました。

尊攘派の一派からの反感を回避し、朝廷との共同政策をすることで国難を乗り切ろうと考えたのです。

1860年4月、四老中連署で和宮降嫁を希望する書簡を京都所司代より九条尚忠に提出されました。

この考えは、幕府だけではなく、今後の国政参加に意欲を見せる公卿たちからも歓迎されました。

しかし、和宮の兄・孝明天皇はこの婚姻要請に難色を示しました。

なぜなら、和宮には既に有栖川宮熾仁親王との婚約が整っていたからです。

さらに、関東の地は野蛮な土地と聞いており、そんなところに生母が違うとは言え、妹を遣わすことにためらいを持っていました。

京を出たことのない和宮自身も降嫁を固く固辞していました。

しかし、婚姻を認めない孝明天皇に上申書を提出し、和宮降嫁を進言する公卿がいました。

岩倉具視です。

岩倉は『和宮御降嫁に関する上申書』を提出し、その中で

  • 皇国の危機を救うため朝廷の下で人心を取り戻し、「公武一和」を天下に示すべき。
  • 政治的決定は朝廷が行い、その執行は幕府が行うという体制を構築すべき。
  • 通商条約の破棄を幕府が行うならば今回の縁組を特別に許すべき。

と述べています。

この進言を受けた孝明天皇は、条約破棄と攘夷を条件に和宮の降嫁を認める旨を、九条尚忠を通じて京都所司代に伝えました。

幕府はこの勅書に対し、7年から10年以内の鎖国体制に戻すための外交交渉と、場合によっては武力でもって破約攘夷を決行すると奉答しました。

そして、和宮降嫁は決定されたのです。

孝明天皇の決断を受けて、和宮は婚姻の辞退を申し出たのですが、1860年11月30日(万延元年10月18日)、既に孝明天皇は降嫁を認める勅許を出しており、どうしても辞退するのであれば、和宮の妹である1歳の冨貴宮を嫁がせると言いました。

徳川家がそれを受け入れないならば、孝明天皇は譲位するので、和宮も尼になるようにと言われた和宮は、「公武一和になるのなら」と降嫁を承諾したのです。

1861年、和宮は桂御所を出て江戸へ下向しました。

この時、和宮の支度を万事手配したのは岩倉具視でした。

江戸で老中と対等に議論できるようにとの天皇の配慮で、随行員としてではなく勅使として江戸に随行したのです。

この一行の行列は、過激派の妨害を避けるために東海道ではなく中山道を進みました。

駕籠の数はおよそ800挺。警護や人足を含めるとおよそ3万人の行列で、行列の距離は50Kmにも及びました。

尊攘派の襲撃に備え、厳重な警備のもと、和宮一行は江戸城内に入ったのです。

坂下門外の変

公武合体の象徴と言える皇女和宮の降嫁を快く思わない者たちがいました。

過激尊攘派の志士である水戸藩浪士4名と宇都宮藩士・大橋訥庵の門下生2名です。

1860年9月、水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷虎之介らは長州藩の桂小五郎・松島剛蔵らと幕政改革の密約を交わしました(丙辰丸の盟約)。

この盟約は、世の中をかき乱し(破)、混乱に乗じて改革を成し遂げる(成)という計画です。

水戸藩側が世の中をかき乱す(破)を担当し、長州側が改革を成し遂げる(成)の役を担当と決まりました。

ただし、この段階ではあくまで幕藩体制の改革を目的としており、倒幕を目的とはしていませんでした。

これに基づき水戸藩過激派は、老中・安藤信正暗殺計画や横浜での外国人襲撃が計画し始めました。

この時、長州藩内では要職・直目付を務める長井雅楽による公武合体論「航海遠略策」が藩論となっていました。

そのため、長州藩藩士の協力は難しくなり、長州側は計画の延期を提案しました。

しかし、機を逸する事を恐れた水戸藩浪士は長州の協力を諦め、宇都宮の大橋訥庵と協力し、計画を実行することにしました。

黒船来航以降、長く尊皇攘夷思想を論じてきた宇都宮の儒学者・大橋訥庵は、公武合体実現のための皇女和宮降嫁に強硬に反対し、倒幕を企てるようになりました。

1861年10月8日(文久元年9月5日)、訥庵が作成した「政権恢復秘策」を門弟の椋木八太郎に持たせ、朝廷に上奏させるために京へ向かわせ、同月、外国人襲撃を企て、幕府の混乱を狙い、公武合体を頓挫させるために、宇都宮の小島強介を水戸へ遣わし、協力を求めました。

水戸藩過激派はこの申し出に対し、協力を約束するとともに、さらに、老中・安藤信正の暗殺を提案してきました。

訥庵としては、老中暗殺は時期尚早と考え、攘夷の兵を挙兵する計画を立てていましたが、人員が集まらず挙兵は中止となりました。

これは、水戸側が、挙兵よりも老中暗殺に重きを置いていたからです。

こうして水戸藩過激派は宇都宮藩志士と儒学者・大橋訥庵の協力を得て、老中・阿部信正暗殺計画を立て始めたのです。

老中暗殺決行日を年明けと定めたものの、一橋慶喜への上書取次を頼んだ一橋家の近習・山本繁太郎が幕府に密告したため、暗殺計画は幕府に知られることとなり、訥庵ら、宇都宮側の参加者が南町奉行所に逮捕されてしまいました。

それにより計画は大きく変更することになり、水戸藩志士を中心とした残りの参加者で、1862年2月13日(文久2年1月15日)、老中襲撃は決行されました。

水戸藩浪士、平山平介・小田彦三郎・黒沢五郎・高畑総次郎・下野の医師河野顕三・越後の医師河本杜太郎の6人は老中・阿部信正の行列が藩邸を出て坂下門外に差し掛かかった瞬間、襲撃を開始しました。

直訴を装い河本杜太郎が行列の前に飛び出し、信正の乗った駕篭を銃撃しました。

弾丸は逸れて小姓の足に当たり、この発砲を合図に他の5人も襲撃を開始、行列に斬り込みました。

警護の混乱の隙を突いて、平山兵介が駕篭に刀を突き刺しました。

これにより信正は背中に軽傷を負い、一人城内に逃げ込みました。

桜田門外の変で大老・井伊直弼が殺害されて以降、登城の際の大名の警備は非常に厳重になっていました。

襲撃のこの日も供回りが50人以上もいたため、襲撃者6人は暗殺を果たすことなくいずれも闘死しました。

警護側は十数人の負傷者のみ、死亡者を出すことはありませんでした。

水戸藩浪士・川辺左次衛門は、襲撃に参加するはずでしたが、襲撃に遅刻したため戦いに間に合わず、長州藩邸に斬奸趣意書を届けた後に、切腹しました。

暗殺は免れたものの、大老の暗殺に続く老中の襲撃事件は幕府の権威失墜を加速させました。

襲撃を受けた直後、安藤信正は、包帯姿でイギリス公使・ラザフォード・オールコックと会見しました。幕府の権力者として、怪我を押して会見の場に出た信正に、オールコックは感嘆したといいます。

しかし、一部の幕閣から背中の負傷を非難され、4月に老中を罷免、その後、隠居・謹慎、信正の所領・磐城平藩は2万石を減封されてしまいました。

最後に

相次ぐ尊皇攘夷派の襲撃に、幕府の権威失墜は加速するばかりでした。

皇女和宮降嫁による公武合体が行われましたが、尊皇攘夷派の動きは活発になるばかり。

京に攘夷志士が集まるようになり、治安も悪くなるばかりでした。

そこで、薩摩藩の島津久光が公武合体を推進するため、先代藩主・斉彬の意志を継ぐために兵を率いて京に進軍を開始しました。

京で朝廷の信頼を得た久光は、さらに朝廷の勅使を伴い江戸に向かいます。

薩摩藩の実権を握り、朝廷からの信頼も厚い久光は幕府に幕政改革を迫ります。

また久光は、薩摩藩の過激派尊皇攘夷藩士の暴走を粛清するために、藩士の粛清を行いました。

寺田屋事件が起こります。

とうとう幕政の中心に薩摩藩が乗り込んできました。

次回は、寺田屋事件・生麦事件について考えてみたいと思います。


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