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西郷どん。有村俊斎(海江田信義)と桜田門外の変の有村雄介と有村次左衛門。

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「西郷どん」は第20回で、有村俊斎(高橋光さん)の弟2人は「桜田門外の変」の実行犯と関係者になり、自刃しました。

有村俊斎は、ドラマでは吉之助の子供時代からの仲間として、お馴染みの登場人物です。

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お調子者としてストーリーに笑いを添えることも。その有村俊斎の弟たちが、暗殺という兇行に及び、自刃する結果となってしまったのです。

今回は、この有村俊斎とその兄弟、有村雄介(山田大生さん)・有村次左衛門の三兄弟にスポットを当ててみました。

目次

三兄弟の生い立ち

有村兄弟の父は、薩摩藩士・有村兼義です。

兄弟は、次男・俊斎、三男・雄介(1835年生まれ)、四男・次左衛門(1839年)、五男・國彦がいます。他に、姉と妹もいました。兄弟は示現流や薬丸自顕流の剣術を学びます。

俊斎は11歳から、茶坊主として働いていました。刀を持たず坊主頭なのですが、出家はしておらず、武士階級となります。家長の兼義と息子の俊斎は、お由羅騒動で処罰され家格を失います。後に、斉彬が藩主になり復帰しました。

鹿児島県の高麗町には、彼らが生まれた家のあった場所に、誕生の碑が立てられています。この石碑ですが、雄介・次左衛門の名前はありますが、なぜか俊斎の名前はありません。

西郷隆盛(吉之助)との関係

彼らの生まれた高麗町は、西郷の住んでいた下加治屋町の隣です。ドラマ「西郷どん」では高麗町郷中と下加治屋町郷中はライバル関係で、西郷吉之助、大久保正助、有村俊斎らは幼馴染のように育ったという描写ですね。しかし、実際には有村俊斎は西郷より5歳年下で、上下関係の厳しい薩摩では、子供の頃はあのように親しい関係だったわけではなかったと思われます。

のち、青年期以降に西郷吉之助が『近思録』を輪読する会、いわゆる精忠組を結成。この会に有村兄弟が参加します。

雄介と次左衛門

安政の大獄を行った大老・井伊直弼に反対し、幕政を正そうとして、薩摩藩は挙兵上京しようとします。しかし斉彬の急死により頓挫。薩摩藩は方針転換し、幕府に従います。この頃、西郷吉之助は大島で潜伏生活を送っていました。

薩摩にいる大久保正助をはじめとする精忠組の面々は、志を同じくする水戸藩士の一部と組んで、老中を襲撃し、首を持って挙兵・上洛する計画を練ります。しかし藩の実権をにぎる島津久光が嗅ぎつけ、彼らをなだめました。薩摩藩士のほとんどは冷静になり、江戸や京都から薩摩に戻ります。

しかし、雄介と次左衛門の兄弟はこれに従わず、脱藩して過激な行動に出るのです。水戸藩からも帰還命令が出て、多くの水戸藩士が計画から離脱。最終的には20名ほどになってしまいます。

井伊直弼の暗殺計画は、17名の水戸藩士に有村次左衛門を加えた18名で実行されました。3月だというのに珍しく雪の降る朝、井伊直弼一行は江戸城に登城。桜田門の手前で、襲撃は行われました。井伊直弼の護衛は60名ほどでしたが、防寒具を着て、刀を濡らすまいと袋をかけていたため、襲撃への対応が遅れます。

襲撃側はピストルも用意していました。ピストルは籠に乗る井伊直弼の腰を直撃。動けない井伊直弼は、刀を抜くことも逃げることもできません。籠から引きずり出された井伊直弼の首を取ったのは、有村次左衛門でした。次左衛門はすぐに護衛の彦根藩士に切られます。深手を負った次左衛門は、その場で切腹をしようとしますが、皮の稽古着が邪魔をして思うように腹を切れません。介錯をする者もおらず、苦しんだ上で亡くなりました。享年22歳でした。

襲撃と同時に、何人かの水戸藩士と雄介は、挙兵のために京都を目指していました。しかし久光の命によって雄介は捕まり、薩摩藩に連行されます。大久保や俊斎の助命嘆願も届かず、切腹させられました。この時、26歳でした。

俊斎のその後

兄の俊斎は、そのまま幕末から明治期にかけて活動します。ところが俊斎は、大活躍というよりは、残念と評価される行動が多かったようです。

まず弟2人が命を賭して志を貫いたのに対し、兄は藩におもねって生き残ったとされて、愚兄賢弟と言われるように…。当時はそのように評価されていたのです。

その後俊斎は、寺田屋騒動での西郷吉之助の行動を久光に報告。吉之助は過激な行動をしようとする藩士をなだめようとしていたのですが、俊斎は藩士を扇動していると島津久光に報告したのです。これが元で西郷吉之助はまたもや島流しとなってしまったのです。勘違いなのかわざとなのか、真偽は分かりませんが、勘違いだとしたら、相当なうっかりさんだと言えます…。

さらに、1862年に島津久光の行列を、イギリス商人が横切るという事件が事件が起きます。薩摩藩士はこの4人のイギリス人を手打ちに。いわゆる生麦事件です。この時、逃げるイギリス人を追いかけて止めを刺したのが、俊斎でした。これは外交問題に発展、薩英戦争の引き金となってしまいます。俊斎だけが起こした事件ではありませんが、追いかけてまで止めを刺したという行動のため、俊斎の名が広まってしまいます。

そして武士の時代は終わり、明治に。大久保正助は政府の中心的存在となり、有村俊斎を重用します。しかし直情型で激昂しやすい性格だったためか、他の藩士と比べると、目立った出世はできませんでした。

例えば、江戸城無血開城の際は、長州藩の大村益次郎と対立。さらに戦でもあまり活躍どころがなく。長州勢と対立したため、華族制度が施行されたとき低い身分しかもらえなかったとされています。その後、明治14年に元老院議官、明治23年に貴族院議員となります。その後、病気で明治39年に75歳でこの世を去りました。

また、有村俊斎は結婚して妻の家を継ぎ、海江田信義に改名。有村家は5男の國彦が継いでいます。

最後に

俊斎、雄介、次左衛門の3兄弟は、西郷吉之助を中心とする精忠組に所属。そして3人共、江戸での勤務の中で尊王論を学び、過激な尊王攘夷派となっていきます。

俊斎は久光に諭されて薩摩に留まりますが、雄介、次左衛門の2人は脱藩して桜田門外の変の実行犯となり、自刃することに。その後、藩に仕えた俊斎は、生麦事件でイギリス人に止めを刺すなど、激昂すると止まらない性格でした。こうしてみると、兄弟3人共が激情型の直情的な性格だったと分かります。

俊斎は西郷と共に行動し、明治まで生き残ります。これからもドラマ「西郷どん」にどんどん登場するので、どんなふうにストーリーに絡んでくるのか楽しみです。


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