大河ドラマ「西郷どん」第22回から本格的に登場した西郷従道(信吾)。

関ジャニ∞の錦戸亮さんが演じていますね。

サブタイトルに「偉大な兄 地ごろな弟」とある通り、島津斉彬と久光の兄弟、西郷隆盛と従道の兄弟の、偉大すぎる兄を持つ弟の苦悩が丁寧に描かれていて非常に面白い回でした。

信吾(後の従道)が偉大な兄の影を追い、時には卑屈に、時には兄に負けじと虚勢をはる。

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誰も自分を認めてくれず、ただ西郷の弟、として扱う。

兄を越えようと足掻く弟の苦悩が見事に表現されていて、とても見所が多い回でした。

さて、まだまだ若い信吾は兄に反発し、脱藩した精忠組・有馬新七の過激思想に傾倒し、やがて薩摩にて謹慎処分を受けるのですが、もっともっとずっと後には、この信吾、明治政府の重鎮となる素晴らしい働きを見せてくれるのです。

西郷信吾(従道)とは、一体どんな人だったのでしょうか?

西郷従道の生い立ち

幼年期

1843年6月1日、薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛の三男として生まれました。

剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を習い、兵学は伊地知正治に合伝流を学びました。

有村俊斎の推薦で、薩摩藩11代藩主・島津斉彬の茶坊主となり竜庵と合するようになりました。

青年期~寺田屋事件

1861年、還俗して本名を隆興、通称を信吾と改めます。

兄・隆盛や大久保利通、有村俊斎などが結成した精忠組に参加すると、有馬新七を中心とする過激派に賛同し、尊王攘夷運動に身を投じます。

1862年、国父となった島津久光の上洛に伴い、討幕挙兵かと期待した尊皇攘夷派の志士らが京に集結した際、精忠組内の過激派・有馬新七の一党に参加し、関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義襲撃計画に加担します。

寺田屋事件にて、1階で有馬や田中謙助、橋口壮介らが、久光に遣わされた奈良原喜八郎ら鎮撫使と戦っている時、信吾と従兄・大山巌らは2階にいました。

下の騒動に気づいた者たちが階下に降りようとすると、奈良原が刀を投げ捨て、決死の覚悟で説得を試み、久留米藩の尊皇志士の真木和泉や公家に仕える尊攘志士の田中河内介がそれに応じたため、寺田屋騒動は収まりました。

この騒動により有馬新七ら6名が死亡、田中謙助ら2名は重傷を負いましたが、後に切腹させられました。

2階にいた薩摩藩尊皇派21名は、帰藩謹慎を命じられました。信吾はこの中に含まれています。

青年期~薩英戦争

1863年、薩摩藩は大名行列を乱したイギリス人商人を無礼討ちにした生麦事件を起こし、イギリスからの賠償要求を拒否したため、イギリス艦隊から圧力を受けました。

かねてから海防を強化していた薩摩藩は寺田屋事件で謹慎していた者たちを許し、総動員体制でイギリス艦隊を待ち受けます。

7隻の艦隊でやってきたイギリスに対し、国父・久光は上陸しての話し合いを持ちかけますがイギリス側は警戒し、その誘いを拒否。

この誘いには、城にやってきた使者を拘束し、交渉を有利に行おうと言う意図がありました。

使者拘束に失敗した久光は、次にイギリス軍艦を奪取する計画を立てます。

奈良原喜左衛門・海江田武次の2名を中心に決死隊を編成し、1艘の小舟には藩主一門の使者に装った藩士を、他の7艘の小舟にはイギリス艦隊にスイカや野菜、果物などを売る商人や百姓に変装した決死隊のメンバーが乗り、イギリス艦隊に近づきました。

決死隊は、イギリス軍艦に商人を装い乗り込み、陸からの大砲の合図で斬り込みを開始、軍艦を奪取する計画でした。

藩の答書を持った者のみ乗船しろというイギリス艦隊に、答書を持っていない藩士たちは船に乗りこもうと策を巡らせます。

他、7艘の物売りに扮した藩士たちも、船から必死にスイカを売ろうと声をかけますが、言葉が通じないイギリス士官にわかるはずもなく、全く相手にしてもらえません。

結局、船に乗り込めたのは3人。交渉を長引かせ、陸からの合図を待ちますが、なかなか合図はなく、突然、陸から1艘の小舟が旗を振りながら「中止」と叫んだため、乗り込んでいた3人も乗り込めなかった小舟も慌てて陸に戻りました。

薩摩藩の「スイカ売り決死隊」は失敗に終わりました。

信吾はこの「スイカ売り決死隊」に志願し、商人に扮して小舟に乗っていたのです。

1868年、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。旧幕府軍と薩摩藩の争いから日本全土に広がった戊辰戦争(薩摩・長州・土佐を中心とした新政府と旧幕府勢力と奥羽越列藩同盟との戦い)の始まりです。

信吾は鳥羽伏見の戦いに従軍し、貫通銃創の重傷を負いながらも各地を転戦しています。

維新後

明治維新後、太政官に名を登録する際に「隆道(リュウドウ)」と口頭で登録しようとしたところ訛っていたために「従道(ジュウドウ)」と聞き取られ、そのまま「従道」と登録されました。

本人も特に気にしなかったため、そのまま「従道」で通したと言われています。

実は隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは父の諱でした。吉井友実が勘違いして登録してしまったのですが、隆盛も特に気にせず、そのままにしていたそうです。

1869年、従道は山縣有朋と共に渡欧し、各国の軍制を学びました。

1870年7月、横浜に帰着すると、8月には軍制を司る兵部権大丞に任じられ正六位に叙せられました。

各国の軍制を学んだ従道は、兵部省の兵制改革を行い、日本陸軍の樹立に尽力します。

1871年には陸軍少将と着実に出世の道を辿ります。

1873年、軍事によって韓国を開国しようとする「征韓論」を主張した兄・隆盛は、岩倉具視らに反対され、遣韓中止となると隆盛らの征韓派は一斉に下野されました。

隆盛が主張したのは、武力でもって朝鮮を開国させようとすることではなく、日本にとって侵略の恐れがあるロシアに対抗するために、アジアで協力してロシアに対抗しようという策でした。

軍を朝鮮に出兵させるのではなく、平和的に話し合いで朝鮮を開国したいと主張し、隆盛は遣韓論を主張していました。

しかし、その主張は岩倉具視や木戸孝允、大久保利通らの時期尚早との反対意見に破れ、遣韓中止が決まったのでした。

隆盛は薩摩に戻り、隆盛を信奉する多くの薩摩藩士も明治政府を去り薩摩に戻るのですが、従道はそのまま明治政府に残りました。

これは、隆盛が従道に「残れ」と語ったからだと言われています。

この時の会話を最後に2人は今生の別れとなりました。

1874年、陸軍中将になると、台湾出兵において、台湾事務都督となり、次に台湾生蕃処理取調委任、台湾蕃地事務都督となり、軍勢を指揮しました。

1877年、西南戦争が起こりましたが、従道は隆盛に加担せず、九州に出征した陸軍卿の山県有朋の代理として政府の留守を預かりました。

西南戦争で隆盛や村田新八らが自決し、西南戦争が終わると、従道は陸軍卿代理として明治天皇に報告しました。

天皇は、隆盛の死を悼み、従道には「これからも勤めてくれよ」と声をかけられました。

兄が朝敵になったことを気に病み辞めることがないようにという天皇の心遣いでした。

その後、従道は近衛都督となり、1877年に内務卿の大久保利通が暗殺されると、参議を経て陸軍卿となりました。

旧長州藩らが幅を利かせる中、従道は薩摩閥の重鎮となっていきました。

明治十四年の政変(憲法制定論議で、伊藤博史が支持するビスマルク憲法か大隈重信が支持する議院内閣制で争い、伊藤や井上薫が大隈一派を政府から追放した事件)では、従道は伊藤派となり大隈重信に辞表提出を促しました。

1882年、黒田清隆が開拓史長官を辞すると、従道は参議・農商務卿兼務のまま開拓史長官となりました。

1884年、華族令制定に伴い、これまでの功績によって伯爵位を授けられました。

1885年、朝鮮の甲申政変後、全権を任された伊藤が天津条約締結する際には、従道も随行し清国に渡りました。

その後、内閣制度が発足されると初代海軍大臣となり、日本海軍拡張に尽力しました。

山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢し、高い軍務能力をいかんなく発揮させました。

従道は、実務は有能な部下にやらせて口を出さず、失敗の責任は自分が取る、という方針を貫いており、その中で山本が改革を推し進めようとした時も、「山本のやりたいようにやらせればよか、責任は取る」と政府内の批判から守りました。

ロシアへの危機意識から戦艦三笠を建造しようとした時も、山本から建造費がないと相談を受けた従道は、必要な物なら作る、責任を取って腹を切る、と決め、国家予算流用までして建造し、後の日清戦争・日露戦争で日本軍を勝利に導いています。

1891年、大津事件が起こりました。

日本訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライが警備に当たっていた警察官・津田三蔵に突然斬られ負傷した暗殺未遂事件です。

その時、内務大臣を務めていた鷹揚で懐が深いと言われた従道が声を荒らげ大審院長である小島惟謙を恫喝し大変な圧力をかけたことがありました。

犯人の津田三蔵を死刑にしなかった場合、ロシアによる報復で日本本土攻撃を受ける可能性があると主張し、日本の滅亡を危惧した従道は、津田の死刑を強く主張したといいます。

1892年には元老となり枢密院顧問官に任じられ、同年、品川弥二郎と国民協会を設立しました。

1894年に海軍大将となり、翌1895年には侯爵に陞爵。

旧主である島津久光と同格になりました。

1898年には海軍軍人として初の元帥の称号を受けました。

要職を歴任したため、内閣総理大臣候補として何度も名が挙がったのですが、従道は兄の隆盛が逆賊の汚名を受けているため、それを理由に断り続けました。

1902年、目黒の自宅にて胃癌により死去。享年59歳でした。

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西郷従道の逸話

従道の人柄は、窮地に陥った時にも少しも動ぜず、余裕綽々であったと伝えられています。

大らかで懐が深い、と評された従道にはたくさんの逸話が残されています。

名前を間違って登録されても特に気にもせず、間違った名前のまま通したというエピソードもありました。

兄・隆盛も同じように父の諱で呼ばれていますが、そのままにしていることから、この兄弟の大らかさが伝わってきます。

とある会議の場で、分かりきった内容の話を延々と続け議会が煮詰まってしまった時、その政治家が椅子に座ろうとした瞬間に従道が政治家の椅子を引き、政治家が尻餅をついてしまったというエピソードもあります。

会議の場に笑いが巻き起こり、その場が和んだことで同じ議論を続ける雰囲気でもなくなり、転んだ政治家も引き下がり、会議が終了できたそうです。

相手の話をじっくりと聞く従道は、「なるほどなるほど」とよく相槌を打っていたため、成程大臣というあだ名を付けられてしまったという話もありました。

従道と共に各地を歩いたことがある山名次郎は、著書「偉人秘話」の中で西郷従道について語っています。

従道は、誰に対しても礼儀に厚く、呼びかける時は「あなた」と呼びかけ、言語態度とも柔らかく丁寧であったといいます。

しかし優しさ、柔らかさだけが全てではなく、一度非常事態が起これば猛然とその決心を行ったと書かれています。

かつて大隈重信を辞職させなければならなかった時も、誰もが嫌がったその役目を従道は率先して引き受け、「我が決心容れられずんば我死するのみ」という覚悟で勧告の使者となりました。

大隈も従道の一大決心を直ちに見てその勧告を受け入れたといいます。

「非常時に際しては、一大衝突をする覚悟で突進して行けば、先方が避けて、決して衝突は起こらないものである」と従道は語ったと山名は記しています。

天津条約を結ぶ際には、伊藤博文を支え清に向かう伊藤の副使を買って出ています。

一緒に責任を取ると約束して清の政治家・李鴻章との交渉に臨みました。

清に向かう船の中には、議論家が乗っており、議論が噴出、しばしば大議論を巻き起こしていたのですが、一切の議論は従道を通さなければ伊藤には伝えられないと宣言しています。

そのため、船内で伊藤はいろいろな議論に煩わされることなく過ごせたといいます。

従道の懐の深さ、包容力、茶目っ気などに人は魅せられ、従道ほど立派な人物はいないと称されています。

隆盛と違い、歴史の表舞台で有名な人物ではありませんが、明治政府において多大な功績を挙げ重要な働きをした人物でありました。

錦戸亮さんの演技に期待

さて、大河ドラマ「西郷どん」で西郷従道を演じている錦戸亮さんですが、関ジャニ∞として音楽シーンでの活躍もさる事ながら、俳優としての存在感も増してきています。

この「西郷どん」では、初回に上野の銅像の除幕式で出演して以降、一切出演が無く、次にいつ出演するのか予想するファンの方々も多かったようですね。

寺田屋事件直前、偉大過ぎる兄の存在に悩み、虎の威を借る狐のごとく虚勢を張る姿、誰しも自分の背後に兄の姿を見ていることに焦り卑屈になるシーン、理解者を得て子供のようにはしゃぐシーンなど、非常にリアルに生き生きとした信吾を演じておられました。

これからも血気盛んな青年期が続きます。

信吾(従道)が本当に自分本来の持ち味を出すのは明治維新以降になります。

大らかで懐深く、上司・部下からの信頼も厚かった西郷従道。

今はまだ、トゲトゲと尖った西郷信吾を熱演中の錦戸さんですが、今後、維新後の人間として円熟していく従道をどのように演じられるのか、とても楽しみです。

最後に

伊藤博文からは「恩人である」と言われ、清の政治家・李鴻章からは「神様が人に化けたような人物」と評されている西郷従道。

なぜこれほどの人物が、西郷隆盛の弟としてのみ認知され、知名度が低かったのでしょうか。

劇的な兄とは違い、堅実に明治政府を支えることになる従道の成長と活躍に注目しつつ、今後の「西郷どん」に期待しています。