「西郷どん」第20回より、精忠組なる集団が登場していましたね。

西郷どん 第20回「正助の黒い石」のネタバレとあらすじと感想。

歴史的には、精忠組の始まりはお由羅騒動の後の1851年頃で、終わりは寺田屋騒動で内部分裂した1862年とされています。

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10年ほどの期間、集団として行動していました。

幕末の薩摩藩で、大きな影響力を持ったとされる精忠組とは、どんな組織だったのでしょうか?

精忠組の始まり

もともとは西郷隆盛を中心に、近思録という朱子学の教科書を輪読する会として結成されました。近思録とは朱子学の教科書です。ただの読書サークルではなく、その実態は島津斉彬派の若者たちによる、政治的な集まりでした。

薩摩で近思録といえば「近思録崩れ」という事件が連想されるのです。近思録崩れとは、斉彬の曽祖父・重豪と祖父・斉宣の間に起こったお家騒動。近思録を愛読していた斉宣派の家臣たちは「近思録党」と呼ばれていました。最終的に斉宣派が敗れ、切腹、遠島、剃髪など計77名が処分されたのです。

近思録崩れから約40年後に、お由羅騒動が起こります。(近思録崩れは1808年で、お由羅騒動は1850年。)

お由羅騒動では、斉彬の父・斉興によって約50名の斉彬派家臣が処分されています。結局、幕府の介入もあり、斉彬が藩主の座に納まりました。

この騒動後に、斉彬派の西郷隆盛が下級武士を中心に結成したのが、近思録を題材に朱子学を研究する会です。藩の政治について語り合う場にもなり、政治的な性格をもった集団となりました。自分たちの目の前で起こったお由羅騒動に、40年前の近思録崩れをなぞらえ、結成されたのだと思われます。藩としてこの政治的な集まりを公認していた可能性は高く、下級武士でありながら、ここからたくさんの人材が世に出ていきました。

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名前の由来

少しややこしいのですが、会のメンバーだった西郷たちが、自ら「精忠組」と名乗ったわけではありません。名前は後世に付けられたもので、西郷や大久保らは、自分たちの組織を「盟中」と呼んでいたそうです。

西郷が奄美大島に島流しになっていた頃、西郷を除くメンバーが勤王攘夷を行うためにテロのような出兵計画を進めていました。それを知った藩は出兵計画を止めるために、藩主・茂久の名で「内愉」として彼らに向けて文書を出します。この文書の宛名が「精忠士面々中へ」でした。これが「精忠組」の由来だと考えられます。

薩摩藩は上下関係が厳しく、藩主が直々に下級武士に命令を出すなど、ありえないことでした。精忠組の面々は、激しく心を動かされたことだと思います。

精忠組のメンバー

近思録を輪読する会の発起メンバー、つまり初期メンバーは…西郷隆盛(吉之助)、大久保利通(正助)、海江田信義(有村俊斎)、税所篤、吉井友実、伊地知正治などです。

その後、メンバーが増えていきました。文久2年に記された大久保の同志姓名録では、56名。主なメンバーは…有馬新七、西郷信吾、村田新八、大山格之助、大山巌、有村雄助、有村次左衛門が挙げられます。

この中で有村次左衛門・雄助の兄弟は、桜田門外の変の計画・実行に関わり、治左衛門は事件直後に自害、雄介は薩摩藩命により切腹しました。

有馬新七は、勤王攘夷論を唱えて藩と対立、寺田屋騒動の中心人物となってしまいます。

村田新八は、西郷と一緒に島流しにされますが生き延び、明治維新後も活躍。そして西南戦争で西郷と共に戦い、最後は自決します。

精忠組の最期

西郷が島流しで奄美大島に潜伏していた間に、精忠組は勤王攘夷思想を掲げて活動します。大久保をはじめとするメンバーが挙兵計画を進めますが、例の内愉文書で、大久保や有村俊斎らは考えを改めました。しかし俊斎の弟たち、次左衛門と雄介は藩を飛び出して桜田門外の変を起こします。

さらにその2年後、有馬新七ら率いる精忠組の一派は、京都で他藩の勤王攘夷志士と交わり、関白や京都所司代の殺害を計画します。島津久光は説得を試み、精忠組から大久保、有村、奈良原などを派遣。しかし交渉がうまくいかなかったため、武術に優れた大山格之助ら9名を差し向けます。

この9名には、説得に応じなければ切るようにという命令が下っていたため、結局両者は切り合いになり、有馬新七ら6名が死亡。生き残った過激派の一部も捕まって切腹に。西郷信吾、大山巌ら、投降して処罰を免れた者もいました。

この場所が寺田屋という宿であったことから、寺田屋騒動と呼ばれています。仲間同士が殺し合う悲劇的な事件の後、精忠組は消滅します。

ちなみに、坂本龍馬が襲撃された寺田屋事件はこの4年後の出来事で、同じ寺田屋という宿が現場となりました。

最後に

薩摩藩の下級武士で構成された、精忠組。

斉彬が広く人材を求めた結果、西郷を中心とした精忠組の若い人材が多く見出されました。

違う時代ならば、身分の上下が厳しい薩摩藩で、このような面々が藩政の中枢に関わるということは、ありえなかったでしょう。

彼らの一部は明治維新や新政府でも活躍し、新しい時代の立役者となるのです。

そして西郷が奄美大島に流されている間に、精忠組は尊王攘夷思想に傾き、最終的に分裂、消滅してしまいました。

西郷がずっと薩摩にいたら、違う結果だったのかも知れません。