1862年、文久の改革によって政治総裁職についた松平春嶽に「急務三策」という建白書を提出した者がいました。清河八郎です。

当時、朝廷から攘夷を行うよう言われていた幕府は、清河の建白書を見て、この案に飛びつきました。

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それによって結成された浪士組。

どのような経緯で結成に至ったのでしょうか?

清河八郎の動き

清河八郎は、出羽の庄内藩にある清川村の郷士・斎藤治兵衛の長男として生まれました。

幼い頃から学問好きで、18歳で江戸の東條一堂に師事、経学を学んでいます。21歳の時、京で梁川星厳に師事、それでも物足りず九州に渡り、2ヶ月に渡り有名な文人学者を訪ねています。

その後江戸に戻り、安積艮斎塾に移ります。同時に北辰一刀流の開祖・千葉周作の玄武館で免許皆伝まで登りつめました。

江戸幕府の昌平坂学問所に入ったものの、そこに失望した清河は自ら剣術と学問を両方教える「清河塾」を開きました。

桜田門外の変以降、清河塾には国の行く末を憂えた倒幕尊皇攘夷の志士たちが集まるようになりました。

万延元年(1860年)2月、清河は「虎尾の会」を結成し、尊皇攘夷を目的とした活動を開始しました。

メンバーは直参旗本の山岡鉄舟、松岡万、薩摩藩士・伊牟田尚平、益満休之助ら15名。

12月にはアメリカ領事ハリスの通訳ヒュースケンの暗殺を実行し、清河塾は幕府に監視されることになってしまいます。

文久元年(1861年)、清河の言動を危険視した幕府が清河を捕縛しようとしますが、北辰一刀流免許皆伝の清河の返り討ちにあってしまいました。

幕府の手先を斬った、清河は幕府から追われる身となりました。

追われる身となった清河は京に潜伏したり、諸国を巡ったりして尊皇攘夷運動を続けました。

九州遊説の旅では久留米藩士・真木和泉や福岡藩士・平野国臣、薩摩藩の有馬新七、肥後の松村大成や小郡の尊皇攘夷派とも接触。挙兵入京を遊説して回りました。

薩摩の島津久光の上洛は倒幕のためのものであると吹聴し、京に尊攘志士を集めましたが、

薩摩藩の同士打ちである寺田屋事件などで討幕挙兵の計画は頓挫しました。

久光が勅使を伴い江戸に向かうと、京は長州・土佐を中心とする尊攘過激派の勢力が力を増していきました。

朝廷内では攘夷督促論が盛んになり、破約攘夷と新兵設置を求める第2勅使を幕府に送りました。

幕府は第2の勅使に対し、将軍上洛の上、衆議を尽くすと朝廷からの将軍上洛要請を承諾し、諸藩に対し攘夷の布告を行いました。

文久2年(1862年)11月、清河は江戸に戻り幕府政事総裁職の松平春嶽に「急務三策」という建白書を提出しました。

内容は、

  1. 攘夷の断行
  2. 大赦の発令
  3. 天下の英材の教育

攘夷のために、罪を犯した志士を許し、世に埋もれた人材を発掘し有用すべきであると説いたのです。

京で、凶行を繰り返す浪士たちに手を焼いていた幕府は、浪士を集めておいて取り締れば良いとの考えを持っていたため、幕府はこれを採用し、浪士組の結成が許可されました。

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長州藩の動き

朝廷内において、公武合体派の九条尚忠(前関白)や久我建通(前内大臣)、岩倉具視らが失脚し、急進派公家である三条実美や姉小路公知らが実権を握りつつありました。

国事参政と国事寄人の2職を新たに設け、急進派がその職に就くなど急進派の力が強くなり朝廷を牛耳るようになっていきました。

また、朝廷の教育機関である学習院では徴士として登用されていた真木和泉や久坂玄瑞らが朝廷に影響力を持つようになっていました。

文久3年(1863年)という年は、尊攘運動が最大の盛り上がりを見せていた年でした。

将軍上洛

将軍上洛に当たり、先駆けとして将軍後見職の徳川慶喜が上洛しました。

この頃の京都は、攘夷派が集まり佐幕派に対し「天誅」と称し暴れまわっていたため治安が悪化していました。

攘夷派の暴徒が「一橋殿に献ず」と記して、公武合体派の公家であった千種有文の家臣の首級をあげ、慶喜が宿舎にしていた東本願寺の太鼓楼上に置く事件や、足利将軍3代の木像の首を抜き、三条河原に晒す事件などが起こりました。

これらの事件は討幕の決意が表されており、将軍・家茂の上洛に対する過激攘夷派の威嚇でもありました。

緊迫した状況での上洛だったため、その行程は何度も変更を余儀なくされました。

当初の陸路の予定を変更し、急きょ海路での上洛経路を模索したのですが、「生麦事件」の影響が出ている海路での上洛も難しくなり、結局、東海道を使っての上洛となりました。

浪士組結成

清河の建言を受けて結成されることになった浪士組。

当初、浪士取締役には松平忠輝の子孫である松平主税介忠敏が任についていましたが、清河と衝突し、辞職。後任は鵜殿鳩翁になりました。

文久3年(1863年)2月8日、浪士組結成の報を聞いた志士たちが集結し、小石川伝通院には300人余りの浪士が集まりました。

結局、京に向けて出発する浪士組総人数は234名。1組を30名ずつ7組に分けられました。7組の浪士たちは3隊に分けられ京に向かうことになりました。

編成発表後、近藤勇は道中先番宿割の任についたため、先回りすることになりました。

同年2月9日、本庄宿に到着したものの、近藤が三番隊伍長であった芹沢鴨の宿を取り忘れたため、怒った芹沢が路上で大篝火を焚くという騒動を起こしますが、浪士組取締役であった広島藩の池田徳太郎と共に近藤が芹沢に謝罪したため、一応の解決は果たしました。

そして同年2月23日、浪士組は京都の壬生村に到着したのです。

清河八郎の真の目的、浪士組分裂

京に到着すると、清河は浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷に提出しました。

到着した夜に、浪士たちを壬生の新徳寺に集めた清河は、浪士組結成の真の目的は将軍警護ではなく、尊皇攘夷の先鋒であると伝えました。

幕府から切り離した組織として、尊皇活動に利用しようとしていたのです。

清河の裏切りを知った幕府は、浪士組に帰還命令を出しました。

そのため、3月13日には清河率いる浪士組はすぐに江戸に戻ることになったのです。

この清河の真意に猛反対した者たちがいました。

庄内藩新徴組取締役・根岸友山、水戸藩浪士一派・芹沢鴨、試衛館一派の近藤勇、土方歳三などです。彼らは当初の目的通り、将軍警護のため京に残留を決めました。

京に残った芹沢や近藤は京都守護職を務めている会津藩預かりとなり、「壬生浪士組」と名乗るようになりました。

江戸に戻った清河は、幕臣の佐々木只三郎・窪田泉太郎ら4名によって麻布一ノ橋で斬殺され、清河の同士らも次々と捕縛されました。

清河の演説に惹かれ、浪士組となり真意を知っても尚清河に従い江戸まで戻った浪士たちは、清河が惨殺されたことにより目的を失ってしまいました。

しかし、幕府は彼らを「新徴組」と名づけ、江戸市中取締役の庄内藩預かりとしました。

下関戦争

将軍上洛を前に、朝廷の中は、攘夷派公家の発言力が高まっていました。

幕府は、家茂が上洛する前に朝廷内に巻き起こる攘夷決行論を阻止しようと工作していたのですが、成果を上げることはできませんでした。

上洛した家茂は、攘夷派公家や長州藩らの影響を受けた孝明天皇の強い要望を受け文久3年(1863年)5月10日に攘夷を決行する約束をし、諸藩にもその旨を通達しました。

しかし幕府は攘夷決行を軍事行動とは捉えておらず、横浜港の鎖港通告を攘夷実行と考えていました。

老中で外国事務総裁であった小笠原長行が横浜港の鎖港と外国人の退去を外国外交団に通達するのですが、それは拒否されてしまいます。

もっとも、幕府は攘夷の意志は薄く、鎖港の通告も朝廷との約束に対する体裁を取り繕っただけで、文書では通告したものの、同時に口頭で閉鎖実行の意思がないことを外交官に伝えていました。

攘夷決行日の朝、攘夷運動に熱心だった長州藩・久坂玄瑞らは瀬戸内海の開運の要所である下関(馬関)海峡を、帆船軍艦2隻、蒸気軍艦を2隻配備して封鎖しました。

現在の北九州市田野浦沖に停泊していたアメリカ商船に砲撃を加え周防灘に追い払います。

続いて5月23日、フランス艦を攻撃、5月26日にはオランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えました。

オランダは、鎖国中も日本と長く交流を続けていたため、まさか砲撃を受けるとは思っておらず、通峡しようとしていました。

翌月6月1日、アメリカとフランスの軍艦が報復が開始されました。

馬関海峡内に停泊中だった長州の軍艦(庚申丸、壬戌丸、癸亥丸)を砲撃、長州海軍は2鑑が撃沈、1鑑が大破という大打撃を受けました。

さらに6月5日フランス海軍は前田、壇ノ浦の砲台に猛攻撃を加え砲台を破壊。

フランス陸戦隊も上陸し、民家を焼き払うなど長州藩に壊滅的な打撃を加えました。

長州藩は、わずか3隻の軍艦に壊滅的な打撃を被り、外国軍隊の驚異的な強さを思い知りました。

この下関戦争の後に長州藩に起用され下関防衛を任された高杉晋作は、武士だけでなく、身分に因らない志願兵による奇兵隊を組織し、長州一丸となって異国に対抗しようとし、軍備の増強にあたりました。

孝明天皇をめぐる争いの激化

幕府が朝廷と約束した攘夷決行日、長州藩は外国船襲撃を実行しましたが、他の藩が続くことはありませんでした。

攘夷を約束した将軍・家茂も江戸に戻ってしまい、長州藩の攘夷活動は行き詰っていくことになります。

他藩の攘夷決行を促そうと長州藩の久坂玄瑞、桂小五郎らはさらなる朝廷工作を始めます。

国論を攘夷に向けて統一させようと久留米藩の真木和泉の考えた大和行幸を実現しようとしていたのです。

大和行幸とは、孝明天皇が攘夷決行のために大和の国の神武天皇陵に祈願し、攘夷親征の軍議を行い伊勢神宮まで参宮することです。

長州ら攘夷派の動きに危機感を持った公武合体派の会津藩と薩摩藩、そして攘夷主義者であったはずの孝明天皇も、尊攘急進派の横暴に憤慨していました。

天皇は、破約攘夷論者でありましたが、三条や姉小路、長州藩のように幕府を倒し天皇親政による攘夷の実行などは想定していませんでした。

むしろ、将軍は天皇の意を汲み、国政を幕府に委任するという大政委任論を支持していました。

孝明天皇が急進派につくのか、公武合体派につくのか、孝明天皇を巡る対立が激化していきました。

薩摩藩の島津久光は、寺田屋騒動で自藩の過激派を粛清し、また一方で生麦事件を起こして攘夷派のような行動をおこしました。矛盾した行動でありましたが、それゆえに孝明天皇の信頼を獲得し、薩摩藩の力は急速に強まっていきました。

朔平門外の変

時を少し遡りますが、文久3年5月20日午後10時頃、尊攘急進派の姉小路公知は朔平門外を越えたあたりで覆面をした3人に襲われ絶命しました。(朔平門外の変)

これまでの襲撃事件では、佐幕派が襲われ、犯人は尊攘過激派であることが多く、この襲撃は異例のことでした。

この頃、孝明天皇を巡る主導権争いで薩摩藩と長州藩は激しく対立していました。

そのため、長州藩と関わりが深かった姉小路を殺害した事件に薩摩藩が関わっているのではと噂されることになります。

事件の2日後、姉小路襲撃の現場に残されていた刀が薩摩藩士・田中新兵衛のものであるとの証言がありました。

それを受けて田中新兵衛は捕らえられ町奉行所に拘留されました。

しかし田中は隙を見て自害、真相は闇の中でした。

田中という人物は、薩摩藩士でありますが、土佐藩の岡田以蔵と並ぶ過激派の刺客であり、九条家の侍である島田左近や越後出身の志士・本間精一郎の暗殺に関わったとされる人物です。

同じ派閥である姉小路殺害は、一見おかしな行動と思われるのですが、姉小路が大阪で幕府軍艦奉行並であった勝海舟と会談し、感銘を受けこれまでの信条が揺らいでいたという情報を掴んでいたのです。

姉小路の裏切りとも取れる信条替えを、破約攘夷派内部の武市瑞山(土佐藩士)、轟武兵衛(熊本藩士)らは重く受け止めていました。

武市の命で要人襲撃に関わっていた田中も姉小路の変節を知り、動いた可能性が高いと言われています。

犯人は自決したものの薩摩藩士であったため、長州藩の台頭を不快に思った薩摩藩の仕業であると流布され、薩摩藩の立場は危うくなっていきます。

薩摩藩は、禁裏九門の1つである乾御門警備から外され、九門内往来が禁じられるなど次第に京都政局から排除されるようになっていきました。

結果、長州藩や破約攘夷派勢力が拡大し、天皇の大和行幸が企画されるに至ったのです。

これに危機感を持った孝明天皇は、久光に上京して三条らを抑えるよう密勅を出すのですが、生麦事件の賠償問題でイギリスと係争中だった久光は薩摩から離れられず、代わりに薩摩藩士・高崎正風と尊融親王(中川宮)を中心に朝廷内から破約攘夷派を排除する計画が立てられることになります。

朔平門外の変は、8月18日の政変のきっかけとなる出来事でした。

八月十八日の政変

8月13日、大和行幸の詔が発せられましたが、公武合体派はかねてからの計画を実行するべく、尊融親王近づき、孝明天皇への説得を頼み、17日に天皇からの尊攘派排除の密命を受けたのです。

そして、文久3年8月18日未明、政変は実行されました。

午前1時、尊融親王と会津藩主・松平容保、前関白の近衛忠煕、右大臣・二条斉敬、近衛忠房父子らが参内。

午前4時には会津、薩摩、淀藩兵により御所九門の警備が完了しました。

諸藩の在京藩主に登城を命じ、一方で三条ら尊攘急進派を禁足、他人との面会を禁じる命を出しました。

尊攘急進派がいない朝議にて、大和行幸の延期や三条ら尊攘派公家、長州藩主・毛利敬親、定広親子の処罰が決定されました。

長州藩は、堺町御門の警備から外され、京を追われることになりました。

三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人も失脚し長州へと下りました。(七卿落ち)

政変の時、壬生浪士組も御所の御花畑門の警護の命が下されました。長州藩の反撃はなく戦闘はなかったものの、初の任務を全うし、会津藩から高い評価を得ました。

この後、壬生浪士組は会津藩から「新選組」の名を与えられ、名乗るようになります。

最後に

文久3年。

この年は情勢が目まぐるしく変わる年でした。

孝明天皇の後ろ盾を欲し、尊皇攘夷派と公武合体派の激突。

開国か攘夷か、佐幕か倒幕か。

自藩の藩論に従う者、自身の信念に突き進む者。

同じ藩、幕府、朝廷においてもそれぞれの思惑が入り乱れ、まさに混沌としていました。

武士や公家だけでなく、身分に因らない勢力も出来上がってきます。

過激化する暴徒たちは増えるばかりでした。

八月十八日の政変で失脚した長州ですが、彼らの意思は強く、諦めません。

長州を追い落とした会津・薩摩を排除するために力をためて機会を伺います。

まだまだ幕末の混乱は続きます。

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