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西郷どん。中村半次郎(桐野利秋)。人斬り半次郎の生涯と、演じる大野拓朗さんと中村瑠輝人さん。

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「人斬り半次郎」の異名を持ち、薬丸自顕流を極めた薩摩藩士・中村半次郎。

偵察など危険な任務も引き受け、倒幕に大きな貢献を果たしました。

西郷隆盛に心酔し西郷に最後まで付き従った半次郎は、多くの偉人たちから高い評価を受けた人物です。

大河ドラマ「西郷どん」では大野拓朗さんが演じておられます。

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優しい面立ち、生真面目で思い込んだら曲げない強い意志、自分の手柄を西郷に話したくて仕方がない無邪気な表情、そして半次郎の危うい狂気が感じられる表情など素晴らしい演技でお茶の間を魅了していますね。

子供時代を演じた中村瑠輝人さんの登場も鮮烈でした。

ボロボロの着物、鋭い殺陣、半次郎の強烈な印象を視聴者に与えてくれました。

さて、史実の半次郎はどのような人生を歩んだのでしょうか。

目次

中村半次郎の生い立ち

中村半次郎は1838年12月、鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方にて、城下士・中村与右衛門

の第3子として生まれました。

5人兄弟で兄・与左衛門邦秋、姉(夭折)、弟・山ノ内半左衛門種国(後に山ノ内家の養子)、妹(島津斉彬の近侍・伊藤才蔵に嫁した)の真ん中です。

中村家の家系は、坂上苅田麻呂に起こり、安土桃山時代の島津家16代当主・島津義久の家老を暗殺した人物の道案内をした桐野九郎左衛門尉の末裔とされています。

家老殺害に関わったことで負い目があったのか、九郎左衛門の子孫は、親戚である「中村」の姓を名乗るようになりました。

半次郎が10歳の時、父が徳之島に流罪となり、わずか5石だった禄を召し上げられてしまいました。

その後大黒柱となった兄を支えていましたが、18歳の時に兄が病没。

半次郎は小作や開墾畑で家計を助けました。

半次郎が二才(にせ=15歳~24歳くらいまでの若者)だった頃、石見半兵衛に決闘を申し込まれました。

しかし、半次郎は決闘を断り、以降、半兵衛が属する郷中の士と親交を結ぶようになりました。

半次郎は貧しさゆえに道場に通うことができなかったのですが、我流混じりの薬丸自顕流を会得し、島津家家中の中では右に出る者がいないと言われる程の剣術使いとなりました。

「軒下の雨粒が地面に落ちる間に、3度刀を抜き差しした」という逸話があるほどの腕前です。

京にて倒幕を目指す

1862年、島津久光の上洛に随行し、朝彦親王の守衛に抜擢されました。

家老・小松帯刀に重用され、西郷隆盛から可愛がられていたといいます。

同年に起こった寺田屋事件に直接の関与はなかったものの、半次郎の郷中仲間が多く関わり心を痛めました。

鎮撫使として郷中の仲間を斬った奈良原繁とは、寺田屋事件以降、距離を置くようになったといいます。

その後、朝彦親王の家臣で倒幕派であった伊丹蔵人の影響を受け、尊攘志士らと親交を持つようになり、徐々に倒幕に傾倒して行くようになります。

1864年7月17日、西郷から大久保利通宛の書簡には、半次郎が尊攘過激派と親交を持ち長州藩邸に出入りし、諜報活動をしていると書かれてありました。

半次郎の希望もあり、家老・小松帯刀と相談して脱藩を装い長州へ送りましたが、長州本国は薩摩藩士を警戒しており、長州に入国できませんでした。

半次郎は、尊攘派と接触を持つことで長州よりの考え方を持つようになり、薩摩と長州を和解させようと動いていたと考えられています。

しかし、薩長の和解は上手くいかず、長州の怒りが爆発し禁門の変が起こってしまいました。

半次郎は、薩摩藩士として長州と戦いました。

この時の半次郎の行動には諸説有り、積極的に戦った、という話と極力戦闘を避け、長州人を助けたなどの話があります。

半次郎には、剣術家としての逸話も多いのですが、人情家であったという逸話も多く残されています。

禁門の変で焼け出された民衆を憂い、道端の飢え死にしそうな人々のために握り飯を2個持って毎日出かけた、という話があります。

仲間が不思議に思って尋ねてみると、道端で飢え死にしそうな人々もこれだけでも口にすれば少しは長生き出来るはずと思い、いつもそうしていると応えたそうです。

焼け出された人々を思っての行動ですが、ちょっとずれている感がありますね。

1864年12月24日付の小松の大久保宛の書簡では、半次郎が兵庫入塾を願っているので叶えて欲しいと書かれていました。兵庫入塾とは、神戸海軍操練所のことです。

勝海舟の建言によって建てられた操練所は、幕府の機関でありながら長州よりの考えを持つ者や土佐脱藩浪士など、反幕府的な思想を持つ者が多くいたため、翌年閉鎖されてしまいます。

半次郎が実際に操練所で学べたかは記録に残っていません。

1864年に起こった天狗党の乱と呼ばれる水戸藩内外の尊皇攘夷派・天狗党が起こした一連の争乱では、天狗党の首領・藤田小四郎(藤田東湖の4男)や武田耕雲斎に面談、諜報活動を行っています。

この時半次郎は西郷隆盛の意向として、薩摩藩が支援をすると申し出ましたが、武田耕雲斎はそれを断ったといいます。

この頃、半次郎は西郷の耳目として情報収集の任に付き、各地を回っていたようです。

1865年には土佐脱藩浪士・土方久元に面会し、倒幕についての議論を交わし、「この人真に正論家。倒幕之義を唱る事最烈なり」と評されたと、土方久元『回天実記』に書かれています。

1866年3月9日、寺田屋事件が起こりました。

薩長同盟を斡旋した坂本龍馬が、薩摩藩士と名乗り寺田屋に宿泊していた所を狙って、伏見奉行が捕縛、または暗殺しようとした事件です。

長州の三吉慎蔵が伏見の薩摩藩邸に救援を求め、留守居役だった大山彦八が救出に向かい、負傷した坂本龍馬を薩摩藩邸で保護しました。

半次郎は、薩摩藩邸で療養する龍馬を毎日のように見舞ったといいます。

1867年3月には、太宰府の三条実美ら五卿を訪れ、長州藩士の木戸孝允や中岡慎太郎などと親交を温め、5月には、木戸から頼まれ、上洛する山県有朋や鳥尾小弥太らを京の薩摩屋敷まで案内しました。

さて、半次郎には「人斬り半次郎」と恐れられ、新選組の近藤勇にも「薩摩の中村半次郎とは斬り合うな」と警戒されていましたが、実際に半次郎が暗殺に関わった事件は1件しか記録に残っていません。

その1件が軍学者・赤松小三郎の暗殺です。

赤松小三郎は信州上田藩の兵学者です。佐久間象山に蘭学を学び、勝海舟の門人でもありました。

英国式兵学を極め、薩摩藩から兵学教授として招かれ、薩摩藩の兵制を蘭式から英式へ改変する指導をしていました。

門下には、野津鎮雄・野津道貫・中村半次郎・村田新八・篠原国幹・黒木為楨・東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞らがいました。

薩摩藩からの依頼で「重訂英国歩兵練法」を出版し、薩摩藩軍事局はこの重訂版が巷に広まらないように厳重な管理下に置いていました。

赤松は京都に私塾を開き英国式兵学を教え、会津藩洋学校の顧問を務めるなど、その門下には薩摩・肥後・会津・越前・大垣藩の各藩士や新選組の隊士まで含まれていました。

赤松の主張はあくまでも公武合体でしたが、この頃、薩長同盟を結んでいた薩摩と長州は武力による倒幕を考えていました。

赤松は、上田藩から召喚命令を受けていましたが、内戦の危機を回避するための活動を続け、薩摩の西郷や小松、幕府の永井尚志らと交渉を続けていました。

しかしとうとう上田に呼び戻されることになり、その帰国の直前、京都・東洞院通りで半次郎に暗殺されたのです。

なぜ、半次郎は自分の師であった赤松を暗殺したのでしょうか。

半次郎が書いた『京在日記』に赤松暗殺のことを記しています。

赤松が「幕奸」であったため斬った、と残しています。

一説には、赤松が薩摩藩の軍事機密を知りすぎていたからとも、武力倒幕路線に反対だったから、幕府・朝廷・薩摩の融和を図っていたからとも言われています。

1867年12月10日、近江屋事件が起こり坂本竜馬と中岡慎太郎、山田藤吉が暗殺されました。

龍馬を慕っていた半次郎は犯人探しや海援隊・陸援隊との連絡に奔走しました。

葬儀の後、墓参りにも行っています。

1867年12月13日、油小路事件が起こり、新選組から御陵衛士になっていた伊東甲子太郎らが新選組に殺害されると、逃げてきた他の隊士を薩摩藩邸に匿っています。

戊辰戦争

1868年戊辰戦争が始まると、半次郎は様々な軍功をあげました。

城下一番小隊に属して伏見の戦いに臨むと、軍功を上げ小隊の小頭見習いとなり、さらに、西郷が東海道先発隊を率いて出陣した際には、小隊長に抜擢され駿府・小田原を占領。

その後、西郷の命で輪王寺宮公現法親王に面会し、撤退させました。

静岡で西郷と山岡鉄舟との会談に立会い、江戸での西郷と勝海舟の会談にも同席しています。

上野での彰義隊との戦いでは西郷指揮のもと参戦し、黒門口攻撃を行いました。

この後、刺客に襲われ左手中指と薬指を失っています。

8月には大総督府直属の軍監に任じられました。

9月、会津若松攻略のための軍議を主催、22日の会津藩降伏後の開城式では、官軍を代表して受け取りの大任を果たしました。

この儀式の最中、人情家であった半次郎は男泣きに泣いたといいます。

堂々とした態度で作法を務め、温情のある戦後処理をした半次郎に対し、藩主・松平容保はその恩に報いるため金銀作りの宝刀を贈っています。

明治維新

1868年、明治維新がなると、半次郎は名を桐野利秋と改めました。

鹿児島常備隊第一大隊隊長となり、戊辰戦争の軍功から賞典禄200石を賜りました。

1871年、廃藩置県が実行されるに当たり、反対勢力の抵抗を予想し、西郷が兵を率いて上京すると半次郎は大隊を率いて随行し御親兵に編入されました。

その後、陸軍少将に任じられ従五位に叙せられました。

函館視察後、札幌に鎮台の必要性を上申し、これが後の屯田兵設置のきっかけとなりました。

1872年、鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官となり、熊本に赴任。

1873年に、陸軍裁判所所長を兼任し、正五位に叙せられましたが、10月に明治六年政変(征韓論争)で西郷が敗れ下野すると、半次郎も職を辞し鹿児島に戻りました。

西南戦争

1873年、鹿児島へ戻った半次郎は久部山の原野を開墾していました。

1874年に西郷を中心とする辞職軍人有志らが鹿児島の青少年育成のために私学校を作ると、半次郎は吉野開墾社を設立・指導して、開墾事業に励みました。

西欧文化を積極的に取り入れ、外征を行うための強固な軍隊創設を目指したこの私学校は、鹿児島県令の大山綱良の協力のもと、大勢力へと成長していきます。

一方で政府は西郷が指揮する私学校に脅威を感じ始めていました。

政府への反乱を企てる志士を養成する機関だと曲解していたのです。

1877年、私学校の内部偵察及び鹿児島対策のために、警視庁のトップであった川路利良は、中原尚雄ら警察官24名を帰郷の名目で鹿児島へ派遣しました。

1月、政府は鹿児島(薩摩藩)の軍事力を弱めるために、鹿児島にある陸軍省砲兵属廠の武器弾薬を秘密裏に大阪へ搬出したのですが、私学校徒たちは、それに反発したのです。

唯一国産化が成功していたスナイドル銃の弾薬製造設備は、薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身でした。

旧薩摩藩士の心情としては、藩士たちが醵出した金で製造したり購入したりしていたので、薩摩藩士やその子孫が使用すると考えていました。

そのため、私学校徒たちは、弾薬製造設備が秘密裏に大阪に運ばれるなど、政府が薩摩の財産を奪ったかのように思い、政府に反発、草牟田火薬庫を襲って、武器弾薬を奪取しました(弾薬掠奪奪事件)

また、私学校徒たちは、政府から派遣された中原らの動きを怪しみ、その動きを内偵しました。

すると、中原らの目的が西郷暗殺にあると知りました。

私学校徒は中原ら60名を捉え苛烈な拷問を加え、中原が「西郷と刺し違える覚悟で来た」と発言したために、多くの私学校徒は激高し、いつ暴発してもおかしくない状態になりました。

こうして、西郷や半次郎、篠原国幹、村田新八、永山弥一郎、池上四郎、別府晋介ら幹部、及び私学校幹部、分校長ら200余名が集結し、今後の方針が話し合われました。

会議は紛糾しましたが、半次郎が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に取るべき途なし」と断案し、全軍出兵が決まりました。

そして2月14日、薩摩の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発、以後、順に大隊が出発しました。

明治政府は、直ぐに西郷軍征討の詔を出し、征討軍を結成しました。

皇族の有栖川宮熾仁親王を征討大総督とし、実質総司令官には山縣有朋と川村純義が任じられました。

2月20日、先発した別府隊が熊本鎮台偵察隊と衝突し、西南戦争が始まりました。

半次郎は熊本城攻城の指揮をしていましたが堅城・熊本城はなかなか堕ちず、そうしている間に政府軍の南下が始まりました。

半次郎は熊本城攻囲を池上に任せ、山鹿にて政府軍を挟撃しようとしましたが、一進一退の攻防が続き、戦線は膠着していました。

戦局は次第に西郷軍不利の方向に傾いてきました。

一時は鹿児島城下の大半を制した西郷軍でしたが、次第に政府軍に巻き返され追い詰められていきました。

激戦の末、疲弊しきった西郷軍は城山で政府軍に全面包囲され総攻撃を受けました。

被弾した西郷は別府晋介の介錯で自刃し、半次郎はそれを見届けた後、さらに進撃し岩崎口の一塁に籠って交戦しました。

しかし、勇戦したものの半次郎は銃弾に額を打ち抜かれて戦死。

享年40歳でした。

西南戦争は「桐野の戦争」と言われ、半次郎は官位を褫奪され賊軍の将として遇されていましたが、1916年、正五位を贈られ名誉回復しています。

中村半次郎の逸話

「人斬り半次郎」などと恐れられた半次郎ですが、面白い逸話がいくつもある魅力的な人物です。

白柄赤鞘の和泉守兼定を腰に帯び、絹布を纏う半次郎は女性を惹きつける存在でした。

新選組の近藤勇からは「薩摩の中村にあっても構うな」と言われるほど恐れられていたといいます。

明治維新後の半次郎は、とても洒落者で身の回りの品に気を配っていました。

金の懐中時計、虎髭を生やして、フランスのオーダーメイドの軍服、軍刀も金銀拵えで、香水を好んでつけていたそうです。

大野拓朗さんの演技に期待

大野拓朗さんは

1988年11月14日生まれ。

東京出身の埼玉育ち。

ホリプロに所属しています。

2010年、ホリプロ創業50周年記念事業「キャンパスター☆H50」でグランプリを受賞、同年、映画「インシテミル~7日間のデス・ゲーム~」で俳優デビューしました。

主な出演作として

映画

  • LIAR GAME-再生-
  • 埼玉家族-息子編-
  • 黒執事
  • セーラー服と機関銃-卒業-
  • 高台家の人々
  • ホーンテッド・キャンパス
  • サバイバルファミリー
  • 猫忍
  • 台湾より愛をこめて
  • 旅猫レポート

ドラマ

  • 三匹のおっさん
  • 大河ドラマ 花燃ゆ
  • LOVE理論
  • 連続テレビ小説 とと姉ちゃん
  • 連続テレビ小説 わろてんか
  • 猫忍
  • 大河ドラマ 西郷どん

などなど、他にも多数の作品に出演されています。

大河ドラマ「西郷どん」出演のきっかけは、映画「セーラー服と機関銃-卒業-」での祐次役の演技だったといいます。

「中村半次郎」は「人斬り」と異名がつくほど剣術に長けていましたが、実はおしゃれが大好きな人情家で出会った人々を魅了してしまう無邪気な人物でした。

優しげな顔立ちながら、鋭い眼差しで人を居竦ませる狂気を演じられる大野さんは、半次郎を演じるにぴったりの方ですよね。

これから戊辰戦争、明治維新、そして西南戦争と続きます。

一藩士としての生き様から人を束ねる将として変化していく半次郎。

西郷隆盛の右腕として最後まで付き従い支え続けます。

大野拓朗さんのこれからの演技、とても楽しみです。

最後に

西南戦争後、西南戦争は桐野の暴発のせいであると貶められてしまいます。

結果的には半次郎の一言で西南戦争は始まったのですが、実際には半次郎一人の責任などではありません。

明治政府の近代化政策のためには、旧武士階層の体制的崩壊がどうしても必要でした。

西南戦争は起こるべくして起こり、そして新たな時代となったのだと思います。

豪快で包容力があり、洒落者でちょっと天然な所もあった半次郎。

新選組も恐れる人物でありながら、出会った人々を魅了する人物でした。

鹿児島市上竜尾町にある南洲墓地。

西南戦争で敗れた2023名もの将兵が眠っています。

中村半次郎のお墓は西郷隆盛の左に位置し、今も西郷を支えているかのようです。


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