幕末期の激動の時代に天皇として在位していたのが孝明天皇です。

孝明天皇の勅許を巡って大変な事件が起こりました。

諸外国の脅威に晒され、開国か攘夷か日本の中でも意見が割れ、あちらこちらで不穏な動きが頻発していました。

孝明天皇は攘夷をはっきりと口にし、周囲に多大な影響を与えた人物です。

大河ドラマ「西郷どん」では中村児太郎さんが演じておられます。

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御簾の奥に隠されてはっきりとは見えないけれど、涼やかで穏やかな声と高貴な雰囲気。

凛とした佇まいが中村児太郎さんにぴったりの孝明天皇。

明治維新へと続く大きな流れの中で多大な影響力を発揮し、大きな役割を果たしました。

孝明天皇とはどんな人物だったのでしょうか。

生い立ち

1831年7月22日、仁孝天皇と藤原雅子の第四皇子として誕生、熙宮(ひろのみや)と名付けられました。

傅役として近衛忠煕が就きました。近衛は薩摩藩当主・島津斉彬の叔母を妻としており、薩摩藩と縁続きの人物でした。

1835年11月8日、親王宣下により統仁親王となりました。

1840年4月16日、立太子の儀が行われ皇太子となりました。

第四皇子として誕生した熙宮でしたが、3人の兄は熙宮が生まれてすぐに亡くなっていたのです。

1846年2月21日に父・仁考天皇が崩御すると、3月10日に践祚、15歳という若さで、第121代天皇に即位、孝明天皇が誕生しました。

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異国からの脅威

孝明天皇が即位した頃は、外国からの開国要求が盛んに行われていました。

1846年、孝明天皇は「海防勅書」を出し、幕府に体外情勢の報告と海防強化を命じ、幕府から異国船の来航状況の報告を受けると、四海静謐を願う祈祷の回数を増やすようになりました。

1847年、現在の学習院大学の元となった学習所が開校し、侍講であった中沼良三を学習院の儒官に任命しています。

1853年、黒船が浦賀に来航しました。

このすぐ後に12代将軍・家慶が亡くなり、13代将軍に徳川家定が就任しました。

朝廷は、太政大臣・鷹司政通の親戚である水戸徳川家から詳細な異国情勢について連絡を受けていました。

将軍宣下の勅使として江戸に下向した三条実万は、老中・阿部正弘と会談し、幕府の方針について聞きました。三条は阿部から叡慮があれば幕府が沿うと説明されています。

異国への対応について朝廷内でも意見が分かれていました。

朝廷は、異国からの攻撃に対し、京の防衛と治安、緊急時の天皇の避難場所などの検討を始めました

1854年3月31日、日米和親条約調印。

同年10月14日には日英和親条約調印。

1854年は数多くの異国船が日本を訪れていました。

1854年9月、ロシアの全権大使・プチャーチン率いるロシア艦隊が大阪湾の天保山沖に出現しました。

アメリカ・イギリスに続き和親条約を結ぶためにプチャーチンは函館に入港しましたが、函館での交渉を拒否されたため大阪・天保山沖に到着、大阪奉行から下田へ向かうよう指示を受け、下田に入港したのです。

異国船が大阪に突如現れたことにより、京・大阪の民衆は大騒ぎになりました。

このことがきっかけで、幕府は京都の警備を強化することになったのです。

この頃、黒船来航や安政の大地震と言われる地震が頻発、市中を騒がす事件が多数起こっていました。内裏でも火災が発生し、炎上するなど厄災が続いたため、1855年1月15日、元号を嘉永から安政に改元しています。

1858年、日米修好通商条約締結を巡って開国派と攘夷派が争っていました。

老中・阿部正弘は対応について諸大名に広く意見を求めました。

幕府は米国からの度重なる要求と世界情勢を鑑み、開国の道を選ぼうとしていたのですが、有力大名の中では攘夷派の意見が強く、困り果てた幕府は、朝廷にお伺いを立て勅許をもらってからの条約締結を目指しました。

大政委任をされている幕府が、これまで条約締結などの問題で、朝廷にお伺いを立てることはありませんでした。

いつもは事後報告だけで済ませていたのです。

しかし、日米修好通商条約締結に関しては、幕府は勅許を求めてきました。

孝明天皇は、強固な攘夷思想を持っていたため、入京した堀田正睦の求めを拒否。

朝廷は御三家・大名でよく話し合いの上で、再奏するようにとの沙汰を下しました。

堀田は手ぶらで江戸に戻ることになったのです。

孝明天皇は、長年続けてきた鎖国が自分の代で終わり、異国人に国を汚されては先祖に申し訳ない、という考えを持っており、時の関白である九条尚忠への書簡に記しています。

その後の書簡にも、堀田が上京して演説しても開市開港は認めず、畿内近国については言うまでもない、と書いています。

朝廷内部でも開国派と攘夷派で割れ、岩倉具視をはじめとする88人の公卿が、条約勅許反対を訴え、列参するという事件を起こしました(廷臣八十八卿列参事件)

そのため孝明天皇は、堀田に勅許を与えず、かわりに大名の意見をまとめ報告するよう指示を出しました。

しかし、1858年7月29日、幕府は朝廷に指示になんの返答もせず、勅許を得ることもなく日米修好通商条約は調印されました。

朝廷、孝明天皇は幕府の決断に激怒しました。

あまりの激怒に、まだ幼い幸宮に譲位をすると言い出すのですが、関白・九条尚忠に懇願され思いとどまっています。

事情説明のために御三家または大老を京に呼ぼうとしたのですが、幕府からの返答は芳しくありませんでした。

大老・井伊直弼は、将軍後継問題で一橋派であった諸大名の処罰を行っており、前水戸藩主・徳川斉昭、水戸藩主・徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶勝が謹慎の身となっており、大老も忙しいため上洛できないと返答してきたのです。

幕府側も一橋派諸大名の粛清と将軍・家定の死亡、ロシア使節への対応で、多忙を極めており、御三家も大老も京に派遣できない事情があったのです。

その代わりに老中・間部詮勝と酒井忠義を上京させると幕府は返答しています。

さらに幕府は、アメリカと同じようにロシアとも条約を締結し、イギリスやフランスとも同様の条約を結ぶ、という簡単な書簡を届けてきたのです。

孝明天皇は、幕府のあまりな対応に激怒し、改めて譲位を宣言したといいます。

戊午の密勅

攘夷の意思を伝えてあったにも関わらず、自分の考えを一つも理解せず、勝手に条約を締結したことは違勅であり、不信であるとして、孝明天皇は譲位し、幕府詰問を通達してもらいたい、と議奏・伝奏に宸翰(天皇の自筆文書)の趣意書を示しました。

譲位を思い止まらせる為に、左大臣・近衛忠煕や右大臣・鷹司輔煕、内大臣・一条忠香、前内大臣・三条実万らを始め伝奏や議奏が集まり協議した結果、勅書を幕府と水戸藩主・徳川慶篤に出すことで、天皇の譲位を思い止まらせる事にしました。

この勅書には天皇の意思を蔑ろにする幕閣を監督するようにという天皇の考えを水戸藩主に伝えるものでした。

しかし、関白・九条尚忠は、このような攻撃的な文言の勅書を幕府だけでなく水戸に出すことは前代未聞のことと反対していました。

しかし、この勅書は関白の許可なしに出され、密勅としてまず水戸に送られ、翌日、幕府にも送られました。

さらに、勅書の写しを尾張・越前・加賀・薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・因幡・備前・津・阿波・土佐の13藩にも密かに送られています。

幕府を通さず、水戸藩に直接送られたいわゆる「戊午の密勅」を見過ごすことができなかった大老・井伊直弼は、安政の大獄という朝廷を含めた大弾圧を開始したのです。

安政の大獄で、朝廷からも処罰者を出す中で、老中・間部詮勝が事情説明のため入京しました。

天皇に直接会うことは叶いませんでしたが、間部は九条関白と面談し、今は攘夷をする力がなく、条約調印は仕方のないことであり、いずれ軍事力が整えば攘夷を実行すると説明したのです。

孝明天皇も、幕府の言い分に納得し、後に勅許を出しています。

朝廷と幕府の意見の不一致は解消されましたが、幕府は戊午の密勅に関わった者たちの処分を始めたのです。

大名・公卿・尊攘志士、連座したものは100人以上。

苛烈な弾圧の始まりでした。

この弾圧は1860年3月24日、桜田門外の変が起こり、大老・井伊直弼が暗殺されるまで続いたのでした。

皇女和宮御降嫁

井伊直弼の後任として大老に就任した安藤信正は、井伊時代から検討されていた朝廷との融和を模索はじめました。

公武合体を進めようとした幕府は、孝明天皇の妹・皇女和宮を14代将軍・徳川家茂と縁付けようとしたのです。

1860年6月1日、幕府は酒井忠義を朝廷に遣わし、和宮の将軍家降嫁を嘆願しました。

すでに有栖川熾仁親王との婚約が決まっていたため、孝明天皇も和宮も拒否するのですが、幕府は何度も奏請を繰り返しました。

孝明天皇は、今後7、8年あるいは10年の間にその時の情勢に応じて、条約を破棄、または攘夷を決行するという幕府からの誓約を受け、和宮降嫁を決断しました。

和宮も最初は拒否していましたが、孝明天皇の説得を受けこれを受諾しました。

1862年3月21日、将軍・家茂と和宮の婚儀が行われました。

この婚儀で朝廷は攘夷の実行を望み、幕府は朝廷の権威を利用して幕府の権威の回復を狙っていました。

しかし、この和宮降嫁は攘夷派志士を大きく刺激してしまいました。

八月十八日の政変

この頃の朝廷は、長州藩の藩論であった長井雅楽の航海遠略策を受け入れていました。

公武合体派の公家から支持されていたのです。

しかし、長井が京や江戸で入説していた時に、長州藩の久坂玄瑞や桂小五郎は破約攘夷を主張し、長州藩内を掌握していました。長井が頼みにしていた安藤信正も坂下門外の変で失脚し、更に京には兵を引き連れた薩摩藩国父・島津久光が上洛していました。

長井は朝廷内の工作に失敗し、長州藩の藩論は開国攘夷から破約攘夷へと変換していきました。

幕政改革のために上洛した島津久光でしたが、薩摩藩がついに倒幕挙兵すると噂が立ち、各地の尊攘過激派志士たちが京に集まり始めました。

薩摩の挙兵に合わせて各地で蜂起しようとしていたのです。

しかし、久光は京の寺田屋にて自藩の過激派を粛清、尊攘過激派たちの企みを阻止しました。

久光の提案した文久の改革案も採用され、朝廷からの信頼を得た薩摩藩は、長州藩に代わり公武周旋の主導権を握ることになりました。

幕政改革のための勅使を江戸に送ることになり、久光は護衛のため同行することになりました。

この文久の改革により、一橋慶喜が将軍後見職、前越前藩主の松平春嶽が政治総裁職、京都守護職を新設、会津藩主・松平容保が就任しました。

長州藩・長井雅楽の航海遠略策は入説に失敗し、薩摩藩に公武周旋の主導権を奪われた長州藩は、破約攘夷に方針を変え、次第に過激化していくことになりました。

長州は即時破約攘夷を主張し、朝廷内での工作も功を奏し、朝廷内の急進派の勢いが増してきました。

土佐勤王党を率いる武市瑞山も入京し、長州の久坂玄瑞と連絡を取り始め、幕府に攘夷の早期実施を求め追い込もうとしていました。

各地から尊攘過激派浪人が京の町に集まり、天誅の名のもとに公武合体を支持した要人たちを殺害する事件が頻発しました。

京都所司代は、勢いが増す尊攘派のテロ行為に次第に対処できなくなっていったのです。

朝廷内には「国事参政」「国事寄人」という重職が設けられ、尊皇攘夷派の公家が就任し、次第に朝廷を支配するようになっていきました。

朝廷における尊攘派の行動はどんどん過激化していき、天皇の意思を汲むことなく勝手な勅書を出すようにまでエスカレートしていきます。

そのため、孝明天皇の気持ちは長州ら尊攘派からどんどん離れていき、次第に長州藩を疎むようになっていきました。

京都守護職となった会津藩・松平容保が上洛し、京の治安維持に努めるようになりました。

京に到着してからの折り目正しい行動と、公明正大な態度、天皇家の窮状を救った容保を孝明天皇は信頼するようになっていきました。

1863年4月、将軍・家茂が上洛しました。

朝廷は家茂に対し、攘夷の決行を約束させました。

孝明天皇は、4月、5月と攘夷祈願のために賀茂社・石清水八幡宮に行幸しました。

この頃の朝廷は尊攘派公家の勢力が強く、孝明天皇の意思が通ることはなく、下の意見に従わざるを得ない状況になっていました。

朝廷内は、天皇親政構想が動き出しており、討幕の動きが強まっていました。

しかし、天皇の意志はあくまで公武合体、朝廷と幕府が協力し、天皇の意思を汲んだ幕府が政治を動かすことを望んでいました。

過激化する攘夷派の専横に危機感を強めた天皇は、公武合体派の中川宮らと連絡を取り、三条実万ら攘夷派を排除するよう動き始めたのです。

孝明天皇は薩摩の久光に上洛するよう要請を出し、上洛した久光は、会津藩・淀藩らと協力し、御所の警護を固めました。

そして八月十八日の政変が勃発、長州藩は御所の警護の任を解かれ、朝廷を専横していた七人の公卿も御所を追放され長州に落ちました。

さらに、新選組による池田屋事件で多くの志士を失った長州は、政権から追われた事と相まり、不満が爆発し、御所に進撃、大砲を撃ち込むなどの暴挙に走り、会津藩・薩摩藩などの藩兵と衝突する事態を引き起こし、朝敵となりました。

この事件を禁門の変といいます。

一会桑政権と薩長同盟の対立

政変後の朝廷は深刻な人材不足に陥っていました。

そこで朝廷は、薩摩藩主の父・島津久光、越前藩前藩主・松平春嶽、宇和島藩前藩主・伊達宗城、土佐藩前藩主・山内容堂、一橋家当主・徳川慶喜らに上洛を命じ、今後の朝廷改革を含めた方策を定めようとしました。

孝明天皇の考えは、幕府への大政委任と公武合体を主張しましたが、久光は、有力諸侯の合議による諮問機関を設け公議政体を作ろうと提案しました。

天皇に上洛を命じられた諸侯らの賛同も得て、後の参与会議の基本方針となりました。

こうして1863年大晦日に久光を除く4人と松平容保が朝廷参与に任命され、久光は1864年2月20日に参与に任命されました。

合議期間として設けられた参与会議の当面の議題は長州藩の処罰と横浜鎖港問題でした。

政変で京を追われた長州藩は失地回復を目指し、政治工作を続けていました。

長州藩に同情する声も多くありましたが、孝明天皇は長州への怒りがなかなか解けずにいました。

横浜鎖港問題では、参与会議のメンバー内はもうすでに攘夷は不可能と認識しており、鎖港には反対でした。

しかし、孝明天皇は熱心な攘夷論者であったため参与会議の議論に不満を持っていました。

当初、横浜鎖港に難色を示していた慶喜は、薩摩藩の台頭を警戒し久光と対立するために横浜鎖港を実行しようと主張するようになりました。

久光と慶喜の対立で参与会議体制は崩壊の危ぶまれる事態になっていましいた。

2人の関係を改善させよう中川宮が開いた酒宴で、泥酔した慶喜が久光・春嶽・宗城らに暴言を吐き、久光と慶喜の関係は悪化。幕府への協調姿勢を諦め、朝廷への支持を強めていくことになります。

参与会議の崩壊を見て取った山内容堂はいち早く京都を退出し、4月14日には慶喜が参与を辞任、他の参与たちも相次いで辞任しました。

慶喜は、江戸幕府から距離を置くようになり京都にて、会津の松平容保や京都所司代となった桑名藩主・松平定敬らと共に独自の勢力を作り始めました(一会桑政権)。

慶喜と対立を深めた久光は、雄藩連合と結成し、政治運動を行っていくようになります。

1865年、孝明天皇の攘夷の意思が開国を妨げていると見た諸外国は、大阪湾に艦隊を入れて天皇に条約の勅許を求めました。

諸外国からの直接の圧力を受けた孝明天皇は、事態の深刻さを悟り、条約の勅許を出しました。

次第に攘夷に拘り公武合体の維持を臨む孝明天皇の権威は低下していくことになりました。

岩倉具視は、国内の対立は天皇が原因と仄めかし、天皇が天下に謝罪することが必要としています。

1866年10月8日には、天皇の方針に逆らい追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生しました。

しかし天皇は22名を謹慎などの処分にし、幕府への信頼を表しました。

1867年1月16日、風邪気味にも関わらず神事に参加し熱を出し倒れた孝明天皇は、そのまま病状が好転することなく1月30日に崩御しました。享年数えで36歳。

死因は天然痘と言われています。

毒殺説

孝明天皇の死は、肛門脱以外壮健であり、近年では風邪すらひいていないほど健康だったため毒殺だったのではないかと囁かれています。

当時、孝明天皇の主治医であった伊良子光順の子孫である伊良子光孝氏によると、当時の日記を見る限り「急性毒物中毒の症状である」と断定しています(中公新書『戊辰戦争』)。

では一体誰が孝明天皇を毒殺したのでしょうか。

諸説ありますが、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、徳川慶喜など大物の名前が挙がりますが、いずれも証拠はありません。

壮健であったはずの孝明天皇が急激に病状を悪化させ余りにも早く亡くなってしまったため様々な憶測が飛びました。

確かに、孝明天皇の死によって倒幕運動は激化し、明治維新へと進んでいきます。

病死か毒殺か、孝明天皇の死には謎が残されています。

孝明天皇を演じた中村児太郎さん

1993年12月23日生まれで本名は中村優太。

父は九代目中村福助。

1999年に初お目見え、2000年に六代目中村小太郎を襲名しました。

屋号は成駒屋。

趣味は野球、サッカー、ラグビーとアクティブですね。

主な舞台は

  • 平成14年1月 「さくら川」童女さくら
  • 平成15年8月 ミュージカル「みどりのゆび」主演
  • 平成16年6月 「鏡獅子」胡蝶
  • 平成17年8月 「勧進帳」太刀持音若
  • 平成17年12月 「恋女房染分手綱 重の井」三吉
  • 平成19年12月 「御名残押絵交張 雪傾城」新造香梅
  • 平成20年12月 「籠釣瓶花街酔醒」初菊
  • 平成24年5月 「紅葉狩」野菊
  • 平成25年3月 「隅田川花御所染」桜姫
  • 平成26年4月 「梅雨小袖昔八丈」お熊
  • 平成27年1月 「仮名手本忠臣蔵」お軽
  • 平成28年1月 「鳥居前」静御前

平成25年に父福助が七代目中村歌右衛門の襲名に伴い十代目中村福助の襲名が発表されましたが、父の病気により保留となっています。

幕末、激動の時代、これまでの天皇と違い攘夷の意思をはっきりと示し、異国を排除する姿勢を取り続けました。

時代に流されることなく自らの意思を貫くには大変な時代でした。

しかし、孝明天皇は先祖に申し訳が立たない、末代までの恥になる、と攘夷の姿勢を貫き通しました。

穏やかな口調、凛とした佇まい、御簾の奥に鎮座しているためはっきりとしたお顔は見えませんでしたが、激動の時代に多大な影響を与えた孝明天皇を中村児太郎さんは見事に演じられました。

最後に

これまでの天皇は、江戸幕府から報告を受ければ、そのままOKを出していました。

しかし、15歳で即位した若き孝明天皇は幕府に勅書を出し、海防強化に努めるよう指示を出しています。

外国の脅威に晒され、日本は鎖国から開国へと目まぐるしく変動していきます。

諸藩の主導権争いに巻き込まれながらも、自身の姿勢を貫き通しました。

突然の病と若くしての死、その後の政治変動から毒殺説まで流れた孝明天皇の生涯は波乱に満ちたものでした。

誰しも、自分の代で変化が起こることを嫌います。孝明天皇が柔軟に時代の変化を受け入れたならば、何かが変わっていたのでしょうか。